衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2025年02月04日    火曜日     第1 回の開示 合計4323回の開示

意識による証果は末法の時代における修行の岐路である

娑婆世界における修行の岐路は非常に多く、相当の善根福徳を備えていなければ、真に方向を見極めることは困難であります。特に微細な点においては、その道を歩んだことのない者は、容易に誤った道に迷い込みます。小さな岐路でさえ、膨大な修行時間を浪費するに足り、そこから脱することさえ容易ではありません。ましてや大きな岐路においては、見極めも脱出も一層困難となります。果を証し心を明らかにするとは、ただ意識が果を証するだけでよいのか、それとも意根が意識と共に証する必要があるのか。この問題は小さな岐路か、それとも大きな岐路なのでしょうか。煩悩を断たずして菩提を証することは、大なる岐路か小なる岐路か。

法を証する問題は、衆生個人と仏教全体にとって最も重大な問題であり、生死存亡の鍵を握る転換点であります。よって他のいかなる法に誤りがあっても、この問題だけは絶対に誤ってはなりません。もしこの問題を誤れば、根本原則における重大な過ちとなり、衆生と仏教の命運に関わる大問題を誤ることとなります。末法の世が進むほど、仏法修証における岐路は増え続けます。古人の仏道修行は「修」と「行」と呼ばれましたが、現代人の学仏は多くが単に「学」に留まり、修と行に及ぶことは稀です。しかし古人の修行者の中でも悟りを得る者は遅く少ないのに、末法の世の学ぶ者の中に悟りを得る者が速く多いのは、極めて異常ではないでしょうか。まさに異常であり、仏法が将来滅ぶとすれば、この点において滅びるのです。修証の根源から滅び、もし実証がなければ仏法は継承困難となります。故に私は長年、意根による証果と明心を説き、意根に関する書物を数冊著してきました。仏法が急速に滅び去ることを恐れるからです。

私は360度死角なく意根証果を説いてきましたが、それでも鈍根の学者や師匠たちは頑なにこの理を認めようとせず、また敢えて認められません。一旦この理を認めれば、自らの大小乗の果位が水泡に帰し、凡夫に戻ってしまうからです。まことに不本意ではありますが、これは極めて非理性的な態度であり、道業を重んじる者とも、法と真理を帰依処とする者とも言えません。事実を回避するは大丈夫の所業ではなく、我執の現れであります。

もし衆生の善根福徳が深厚であれば、たとえ岐路に遭遇しても自らの善根福徳によって最終的に岐路を脱し、正しい道に回帰することができます。よって仏道を学ぶ者は皆、福徳を修め善根を培うべきです。そうすれば今生と来世において岐路に入らず、法を択ぶ眼と弁別力を得て、誤導されず悪道に堕ちることを免れます。末法の世が進むほど、福を修める機会は増え、善根を植える機会も多くなります。真に成道を願い大願を発する者は、あらゆる機会を捉えて善根福徳を培うべきです。これにより自らは生生世世にわたって限りない利益を受け、更に仏道修証の過程を加速させ、速やかに智慧解脱を獲得し、自利利他を成就することができるでしょう。

——生如法師の開示
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意識の証果は依然として具縛凡夫なり

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