衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年02月12日    水曜日     第1開示 合計4327開示

解悟か証悟かをいかに検査するか

洞山和尚が川を渡る時、川の中に映る自分の影を見て、突然悟りを開いた。偈に曰く、「渠今正是我、我今不是渠」。問う:渠とは誰を指すのか?我とは誰を指すのか?両者はどのような関係にあるのか?洞山和尚は川の中の影を指さして言った:「あなたは今まさに私だが、私はあなたではない」。影とは、第八識が映し出した五蘊であり、第八識から来たもので、第八識の影である。五蘊は唯識の究竟義から言えば第八識と言えるが、第八識は決して五蘊ではない。

これらの法は、考えて、よく吟味すれば分かるようになるもので、大したことではない。解悟と言ってもいいし、解悟ではないと言ってもいい。証悟と言うならば、内から外へ、上から下までしっかりと検査する必要がある。何を検査するのか?その人の内面が変わったかどうか、智慧が生まれたかどうかを検査するのである。五蘊はただの影だと証得すれば、必ず大きな驚きがあり、内心は波瀾万丈となる。従来考えていたこと、執取していたことはすべて間違っていたのだから、この時の内心はどのような状態であろうか?証悟を何度も経験したことのない人、心通のない人には、この人が証悟したのか解悟なのか、どうして分かろうか?一般の人には絶対に検査できない、百パーセント検査できないと言ってよく、ただ人の云うことを云うだけである。

証悟は大智慧であり、証悟したかどうかを如実に検査できることは、さらに大智慧であり、証悟の智慧よりはるかに大きい。証悟すれば第八識の比較的簡単で粗略な運行を現前で観察できるが、これは解悟では比べものにならない。解悟では、心の中にただぼんやりとした影があるだけで、はっきりと言い表せず、第八識がどのように運作しているのか、五蘊がどのように出生するのかが分からない。どれだけ理論を並べ立てても、正確で細密なものは一つもなく、水面に浮かんでいるだけで水に入れず、水中の様子が分からないのと同じである。

自分は開悟して第八識如来蔵を証得した大菩薩だと言う人がいるが、この大菩薩は何年経っても第八識如来蔵の少しでも細密な運作の様子を語っておらず、すべてが大まかで曖昧な大枠の理論ばかりである。そうした理論は、経書や菩薩の論著を見れば大体は推し量れるもので、何ら珍しいものではない。禅宗の公案に至っては、祖師たちが上堂して人を接引する時の身振り手振りを見ていれば、大体のことは何かしら分かるものであり、見様見真似でできる人も少なくない。何ら珍しいことではなく、一指禅師の小さな弟子でも一指で身振り手振りすることができ、外見は師匠と同じだが、しかしそれは禅ではない。現代人の偽造能力は比類がなく、世俗から仏教までみなそうであり、業が重く、煩悩が重く、我が重いことによるものである。

禅宗の祖師たちの作略を身振り手振りで真似る人たちは、解悟と言えるかもしれないし、解悟の縁にも触れていないと言えるかもしれない。意識の働きを第八識の働きだとするのは外道であり、八識の共同の働きを第八識単独の働きだとするのは推理と推測である。素人は絶対に見抜けず、しばしば圧倒されて呆気に取られる。この手口は天を瞞して海を過ぐることができる。衆生の見識があまりにも浅く、実に愚痴で騙されやすいからである。だから、騙された時には、振り返って自分自身を検査すべきである。なぜ騙されたのか?他の人はなぜ目が明るく心が澄んでいて騙されないのか?街を歩いていてうっかり人にぶつかって、その人が目を剥いて言ったとする:「私は証果の聖人だ。よくも私にぶつかったな?」と。それを聞けば、ハハと笑って「すみません」と一言言えば済む。不思議がる必要も、何か言う必要もない。


——生如法師の開示
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