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日常法話

2025年07月23日    水曜日     第1開示 合計4433開示

過午不食戒

増壱阿含経第十六巻高幢品原文:如阿罗汉。尽形寿不坏斋法。恒以时食。少食知足。不着于味。我今亦如是。尽形寿不坏斋法。恒以时食。少食知足。不着于味。从今日至明旦。

解釈:阿羅漢のように、一生の寿命を尽くすまで斎法を壊さず、常に時食(じじき)をもって食し、少食知足で、飲食を貪らず、味塵を貪着しません。私も今またこのように、一生を尽くしても斎法を壊さず、常に食べるべき時に食し、過午不食(午後は食べない)とし、少食知足で、味塵を貪着せず、今日から明日の明け方まで行います。

これは一日一夜の八関斎戒であり、条件のある者は七日七夜受持することもでき、また毎日受持することもでき、功徳は計り知れません。仏在世時の阿羅漢およびすべての出家衆は、一生を通じて日中一食で、過午不食でした。彼らは専ら修行に従事し、世間のことはなく、静坐の時間が多く、心は清浄であったので、日中一食はとても容易に保てました。在家の学仏者の中には、過午不食を実行できる者も一部います。末法時期に過午不食を守持するのは少し困難で、退職して仕事のない在家居士なら守持し続けられますが、仕事のある者には非常に困難です。寺院の出家者も、寺院の事務が多くて安らぎを得られず、禅定が少なく、心が清浄でなければ、過午不食戒を守持するのは容易ではありません。仏がこの戒を制定したのは、修行者の心を清浄にし、修道と入道を容易にするためです。多食すれば、第一に貪着が増し、第二に胃が常に飲食の消化に忙しくなり、心が清浄にならず、修道に専念して問題を思考することができません。特に夜に食べると、胃が飲食の消化に忙しくなるため心が静まらず、禅定が生まれず、静慮が成就できません。それゆえ少食は修行に利益するのです。

ある人々は戒律をもって仏を縛り、仏に過午不食戒を守らせようとし、夜だけでなく午後にも仏に供養しません。なぜこれらの人々はこのように諸仏菩薩に接するのでしょうか? それは凡夫の衆生が仏菩薩の境地を知らず、戒律の実質的内涵を理解せず、仏菩薩を自分と同じ凡夫、しかも人間の凡夫とみなしているからです。それゆえ、仏菩薩は人間の衆生と同じように過午不食戒を守持すべきだと考えているのです。

釈尊が当時この戒律を制定されたのは、修行者の心を清浄にし、飲食の干渉を受けずに、持続的に修行し、連続的に用功でき、散乱や昏沈の状態が生じて修行に影響することのないようにするためでした。しかし、この戒律は釈尊や諸大菩薩には適しません。たとえ仏菩薩が人間界で人の身をもって住世していても、この戒律の制限を受けるべきではありません。第一に、仏は修行を必要としないこと、第二に、仏は無量の道行を有し、飲食を化解変化させることができ、食べなくてもよく、無量に食べても身心に影響しないからです。しかし釈尊は当時、人間界でも過午不食でした。これは衆生のために模範・手本を示されたのです。そして仏は天人の前では過午不食戒律の制限を受けず、いつでもどこでも天人の様々な供養を受けられたのです。

諸仏菩薩が人間界にいないとき、そのおられる仏国土では、太陽の光を昼と夜の境界線とせず、しかも他の仏国土の一分間は娑婆世界の人類の何日にも相当します。すると、人類の朝晩の時間は、他の仏国土の時間にどう対応するのでしょうか? 欲界の忉利天以上の天界には太陽がなく、自然の光明が現れており、太陽の光を必要としません。それゆえ忉利天以上には黒天(夜)がなく、夜がありません。他の仏国土にも黒天・夜はなく、まして仏の世界には夜というものはありません。人類の過午不食戒は、時空を変えれば何の意味も持ちません。それゆえ仏への供養は、人間の昼や夜といった時間を考慮する必要はないのです。

さらに言えば、諸仏菩薩は無量の智慧をもって、食するか否か、どれだけ食べるか、いつ食べるかを決択されます。凡夫の智慧のどこが、諸仏菩薩の行いを憶測し制限できましょうか? それゆえ仏への供養に時間の制限はなく、仏の境地には時間がなく、朝晩の別もありません。仏は衆生が福を積むために施しを受けられるのであって、御自身には何も必要とされず、たとえ必要であっても仏は御自身で変化させて、瞬時に完成されます。仏にはまた戒律による制限もなく、仏の無量の智慧と徳能をもってすれば、とっくに戒律によって縛られる必要はありません。人間の衆生は、天人や神人、諸仏菩薩に人間と同じ習性・習慣を求めてはならないのです。

人類の思いは人類の生活範囲内に制限されており、人類の範囲を超えた衆生や仏菩薩の境地を理解できません。私たち学仏者は、人類の狭隘な思想や境地、そして様々な習慣をできる限り突破すべきです。人類は二本の足で歩きますが、天人は空中を飛びます。私たちは、人類が歩く規則をもって飛行できる天人の行いを規範化すべきではなく、まして人類凡夫の規則をもって諸仏菩薩の心行を制限し規範化してはなりません。人類は諸仏菩薩と比べれば乳飲み子のようなものであり、諸仏菩薩の心行と境地を理解し想像することができません。それゆえにこそ、様々な誤解や不解が生じるのです。私たちはできる限り心量と眼界を広げ、凡夫の狭隘で、理に適わず、幼稚な思想をできる限り打ち破り、より高級な生命の思想境地と行為規範にできる限り近づくべきです。


——生如法師の開示
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