増一阿含経第十六巻高幢品原文:阿羅漢の如く、香華・脂粉の飾りに執着せず。我今も亦た是の如くすべし。形寿を尽くして香華・脂粉の好みに着せず。
釈:阿羅漢のように、香華を身に付けず、白粉やおしろいで身を飾らず、私も今このようにすべきである。一生涯、香華を身に付けず、紅や化粧を好まず、自らを飾らない。
香華や脂粉の装飾品は、身体を飾る一切の物品を含み、必要最小限の衣服以外は全て余分な装飾品である。男性には男性用の、女性には女性用の装飾品があり、いずれも身体を装飾し美化するため、あるいは自身の身分や地位、階層を示すためのものである。これを身に付けると、身見(身体への執着)を増長し、我慢(うぬぼれ)を強め、心を清浄に保てず、修行に不利である。ゆえに全て取り除くべきであり、戒律を守っているか否かに関わらずである。
八斎戒の日には、香華を身に付けず化粧を施さないという戒めは、様々な華美で豪華な装飾品(金銀など)が付いた衣服、高級に作られた礼服、および女性の身体の線や風情を露わにする様々な衣服も含まれる。これらの衣服を着用すると我慢を増長し、我見(自我への執着)や身見を強め、人の欲望を引き起こし、修行に不利である。出家者の着る衣服は全てゆったりとしたもので、身体の線を露わにせず、体を厳密に覆い隠し、色彩は濁色(くすんだ色)で明るくない。たとえ仏が在世の時も、着衣は非常に質素であり、比丘たちのものと大差なく、衣服の供養がない時は屍棄林(屍体を捨てる林)で屍衣を拾い、染め直して繕い、身にまとっていた。
仏陀は三界の至尊であり、世の中で仏陀より尊い存在は他にないが、生活はこれほど質素で控えめである。こう比較すると、金銀を身にまとう凡夫は実に贅沢極まりなく、至る所に自身の欲望と執着を露呈しており、どうして生死の苦しみを解脱できようか。
善き哉(よきかな)解脱服、鉢吒(はった)礼懺衣(らいさんえ)。我今頂戴受(ちょうだいじゅ)し、世世常に披くことを得ん。これは戒を受け袈裟(礼懺衣・漫衣)を身に付ける際に唱える偈である。この偈は何を意味するのか。漫衣は長方形の布地一枚で、衣服の形をしておらず、身にまとって肩のボタンで落ちないように留める。この布は礼懺衣とも呼ばれ、受戒や仏前での懺悔の際、また経典を誦する時や法要活動の際に着用する。この衣を身に付けることは、戒体(戒律の本質)を得たことを表し、戒体があって戒律を守ることができる。戒を持っているがゆえに、将来解脱の果報を得ることができる。解脱の功徳を受用できるのである。ゆえに戒を受け戒を守ることによってのみ我見を断ち解脱を得られると言える。戒を受けず守らなければ我見を断てず、解脱も得られない。我見を断てないということは、明心見性(心を明らかにし本性を見ること)ができないことを意味し、大乗小乗ともに何らかの成就を得ることはできない。戒の重要性はここにある。
この問題は逆方向から考える必要がある。なぜ多くの人は香華で身を飾ることを好むのか? 身体を飾ることには何の意味があるのか? 男女が自身を飾り立てるのは何のためか? 衆生は覚った心がないため、自身や他人の日常の行為や表現を省みず、自問せず、自身の習性や習慣に従い、自身の全ての心の動きに流され、これがどのような心の動きなのかを知らない。衆生の全ての心の動きは、突き詰めれば身見と心見であり、合わせて我見となる。我見が深く重いため、時と場所を問わずに表れ、隠そうとする心もなく、隠すこともできず、抑制することもできず、これが邪見であり誤りであること、生死の深みに落ちて自ら抜け出せないことを知らず、仏が救いの手を差し伸べるのも困難である。
身体をもって我とすることを身見という。衆生は無意識のうちに、いついかなる場面でも常に自身の身体を気にかけ、他人が自分をどう見ているか、どう評価しているか、どうすれば他人に自分を受け入れてもらえるか、好かれ、崇敬されるかを気にし、それゆえ無意識に他人の目や注意を引きつけようとする。自身の身だしなみを非常に気にする人々は、皆身見があるからである。髪をいじったり、仕草をわざとらしくしたり、職業的な微笑みを浮かべたり、頻繁に髪や手を触ったり、顔を拭いたり、衣服を直したり、極めて多い小動作は、全て人の身見を示しており、身体への感覚を一分たりとも無視できず、いついかなる時も身体を忘れることができない。これを見れば、衆生の身見がいかに重いかがわかる。
身見とは何かを知れば、他人に身見があるかどうか、どれほど深刻かを観察でき、その人が身見を断っているかどうか、善知識であるかどうか、その教えがあなたを我見断ち、解脱へと導くものかどうかがわかる。衆生は一般的に無知であり、仏典を学ぼうともしないため、正しい判断力がなく、騙されやすく、偽りを真実と思い込み、邪道に極めて多くの時間と労力を浪費している。我見を断つとはどのような身心の状態か、身心の表れかがわからないため、説法者であれ聴法者であれ、自身の身見や我見を隠すことができず、どう隠せばいいかもわからず、装うこともままならない。
説法者もまた衆生の無知や理解不足を知っているが、わざわざ偽装したり隠したりはしない。これは愚か者が愚か者を導くことであり、誰も愚痴の深みから出られないことを示している。詐欺師が世に大いに流行するのは、世の中の土壌が適しているからである。生存に適し、繁殖に適している。その適した土壌とは、衆生の愚痴と無知である。ゆえに衆生の業力が偽善者を呼び寄せ、偽善者を引き寄せるのである。
では主題に戻ろう。仏陀が戒律を制定し、衆生の身口意の行いを制約したのは、衆生が自身の正しくない身口意の行いを調伏し、自身の身見や我見を調伏して、我見を断つための基礎を作り、明心見性のための基礎を作り、また禅定の基礎を作るためである。ゆえに戒を受け守ろうとせず、戒律を遵守しない者は、禅定が現れず、自心を調伏できず、我見を減らすこともできず、我見を断つこともできず、明心見性もできない。
禅定がなく、戒律も守らない者が、証果を得た、明心見性したと主張するのは、何の果を証したのか、何の心を明らかにし何の性を見たのか? それゆえ、人を証果や明心へ導く者が、なぜ随学する者に煩悩に随順すべきだと唱え、戒相を捨て、有相の戒を守るべきではないと主張するのかは、不思議ではない。彼ら自身の煩悩が非常に重いからである。全ての衆生を愚か者と見なして欺くことは、非常に不明智な行いである。なぜなら、娑婆世界は何と言っても仏陀の国土であり、衆生は仏陀の子民である。仏陀の大慈悲心をもって、どうして衆生への配慮と救済を放棄できようか。どうして衆生を支えずにいられようか。どうして衆生が悪意に騙されるままにしておけようか。
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