如凱の観行:師父様!今日の午後、家の外で工事が行われており、チェーンソーなどの音がとてもうるさかったのですが、私は坐禅をしたくて、座につきました。師父様の念仏の声を聴いているうちに、すぐに静かになりました。ただ一つの念で呼吸を観じ、吸う息がどこを通り、吐く息がどこを通るか、その全過程がはっきりと分かりました。チェーンソーの音や外の車のクラクション、人の話し声も聞こえ、大きかったり小さかったりしましたが、呼吸を観じることに影響はなく、少しも焦燥感や他の感情は起こりませんでした。
普段なら私を悩ませるこれらの音が、この時は背景音のようになり、師父様の念仏の声だけが最も鮮明でした。最後に目を開けて座を降りると、一時間近くがまるで夢を見たかのようで、頭はとてもすっきりしていました。座を降りて数歩歩くと、少し頭が重く足元がふらつき、気が全て頭頂に集中しているようでした。少し眩暈がして話したくありませんでしたが、それでも師父様の念仏の声を聴きたいと思いました。師父様、弟子のこのような坐禅は少しは禅定に入れたと言えるでしょうか?
答:その定力は非常に良い。定も慧もある。雑音が呼吸観察に影響せず、聞いても聞こえず、知っていても入らず、喧噪に心を動かされない。これは明らかな禅定である。このような定の中では、専心して観行でき、呼吸の運行する全過程を明晰に観察でき、外界の音を分別せず、乱されない。慧力が非常に優れている。真に慧を生じ得るのはこのような功夫であり、一心に定に入って他の事を知らないような愚かな定ではない。呼吸に専注し雑事を思わないため、時間の経過が早く感じられる。このような功夫は正道正行であり、日が経つにつれて道を証得するであろう。
座を降りた後に頭が重く足元がふらつくのは、気血が頭部に到達しても通り抜けられず、頭部に滞りが生じたためである。時間が経てば障害が減り、気血が通れば良くなる。普段から頭を叩いたり軽くたたいたりして、筋脈を柔らかくすれば、気血の運行が円滑になる。
私のあの念仏音声は般舟三昧念仏法(中速版)である。般舟三昧とはこの非常に遅い念仏速度のことで、後にはこれよりもさらに遅く、ほとんど止まるほどに遅くなって初めて、念仏三昧の中に安住できるのである。
最初の念仏速度はもう少し速くすべきである。なぜなら定が浅いほど念仏速度は速くなるからだ。定のない者が速く念仏しても適応できず、抑圧的で重苦しく感じる。私は速い念仏法も試してみて、定が浅い者や定のない者もついてこられるようにしよう。
もし中速で皆が重苦しく抑圧的に感じるなら、それはまだ禅定が不十分である証左である。三昧とは定であり、定とは止である。心が止に近づけば、音声は遅く小さく、ついには無に至り、音調は低く沈んでいなければならない。音声が低く沈みゆっくりであってこそ、心は収斂し、外に放たず散乱せず、感情の動揺もなく、心は静寂となる。音声が高く鋭ければ発散し、感情が動揺し、心を止めることはできない。
遅く低く念仏すれば、妄念は生じにくく、心は他を顧みる余裕もなく、完全に念仏の境地に沈む。これもまた定を修め心を止める方法であり、念仏の音調が美しいかどうかを鑑賞するものではない。音声が心地よいかどうか、仏号の声が明瞭かどうかを気にかけてはならない。心を摂め専念することが根本目的である。あれこれと批評すればするほど、心は散乱する。
もし旋律が優美で悠揚であれば、聴く者の心には貪りの念が生じ、曲調に浸ってしまい、心は定まらず静まらず、念は止まらない。単調な念仏の音声だけが、心を念仏の状態へと導き、人が音声に貪着せず感情の動揺もない境地をもたらす。念仏は優美な歌曲の鑑賞ではなく、世俗の音楽とは逆に、その道に反する行いである。念仏修行を理解しない者は皆、音楽家や歌手の唱える念仏を好み、曲調の優美さや音声の心地よさを好むが、それでは定を得ることはできない。
定に入ってしまえば念仏の声は不要となるが、般舟三昧ではひたすら念仏を続け、止めてはならない。四十九日間念じ続けて般舟三昧を成就すれば、十方の諸仏が眼前に立ち現れ、悟りを開き心を明らかにするのである。
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