この方法は深く呼吸しながら念仏を唱えるものであり、念仏は呼吸のリズムに合わせて行われます。深く息を吸い込み、いっぱいになったら、今度は息を吐き出しながらゆっくりと「阿弥陀」と唱え、息を吐き終わるのと同時に「阿弥陀」の念仏も終わります。再び息を吸い込み、吐き出す際には「陀仏」と唱え、息を吐き終わるのと同時に「陀仏」の念仏も完了します。
息を吸うたびに気を丹田まで導き、丹田の気が満ちると全身に流れていきます。その流れの一部は丹田から海底(会陰部)へ、さらに尾閭(尾骨)へと向かい、順に腰、背中、大椎穴(首の付け根)、肩甲骨へと上昇し、腕や手、頭部の各所へと流れます。この時、全身に気が満ちているのを感じ、腰や背中、肩が非常に心地良く、背筋は伸び、肩は落ち、腕は柔らかく、呼吸は穏やかで、心は極めて静かになります。同時に胸郭に満ちた気がゆっくりと流れ、心の広がりもそれに伴って開け、無限に広大となり、心が大虚(宇宙全体)を包み込めるような感覚を覚えます。
丹田の気が満ちた後、今度は丹田からゆっくりと息を吐き出し、へそ、胸郭、肺、気管、喉、口腔、鼻腔を通ります。念仏を唱える際の気流は舌や歯も通り、音の流れと気流が順に各部位を震わせ、身体に強い触覚が生じます。呼吸と念仏によって心が静まり、触覚が明瞭になったら、その触覚を各所で観察(観行)します。観察の方法は呼吸を観るなどの方法と同様です。静寂の中で観ると、音と気の流れが到達する箇所の触覚がすべて明らかに理解でき、最終的に五蘊(色・受・想・行・識)の空(くう)を証得できます。
鼻の先端の白(鼻端白)を観察していると、次第に煙のようなものが見えてくることがあります。目を閉じると鼻先の気が煙霧状に、あるいは粒子のように見え、時には目を閉じたまま身体の周囲の景物が粒子のように浮遊しているのが見え、景物が虚ろで儚く、少し現実離れした感覚を覚えます。この感覚は真実(真相)に近づいており、真実に向かっている証です。このような観察の境地があれば、真実を証得するのはさほど難しくありません。
もし机や椅子、壁などを粒子状に観じ、虚妄(実体のないもの)と観ることができ、以前のように物が実体あるという感覚を忘れ去ることができれば、禅定の中で身体がそれらの物を通り抜け、障害なく移動できる可能性があります。しかし、再び物が実体あると意識した瞬間、物は再び障害となります。つまり、心が物への固着した執着(執念)が、自らの一切の行いを阻み、至る所で障害(質礙)が生じて通じなくなるのです。正しい修行とは、法(存在)の虚妄性を証得し、執着を取り除くことにあります。そうすれば心身は四方八方に通じ、障害がなくなり、天に昇り地に入ることも、虚空に入るが如く自由自在となります。
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