衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2025年08月11日    月曜日     第1開示 合計4445開示

煩悩に従うは聖賢の行いにあらず

呪文や屍鬼を用いて人を殺す、このような殺人方法は極めて秘匿性が高く、他人はあなたに殺意があることを知らず、あなたが人を殺したことも知らず、あなたが血を見ずに人を殺したことも知らない。このような煩悩に従うのは悪人であり、作り出せば殺人の罪業となる。このように煩悩に従うことは道徳を欠く者であるだけでなく、大いなる徳を欠く者であり、大徳であるはずがなく、菩薩でもない。菩薩の隊伍にこのような悪人や犯罪者が現れることはない。

人を殺さず、他人が人を殺すのを見たくない者でも、畜生を殺すことは殺生の業である。例えば、食欲に駆られて肉を食べたくなり、しかも新鮮な肉を求めて、自ら手を下さずに他人に暗に殺させ、口に出して肉を食べたいと呟けば、他人は生き物を調達し、屠殺して調理してから食べさせる。こうして彼の手は血に染まらず清らかでも、口は清くなく、心はさらに穢れている。このような煩悩に従ってよいのか?従えば殺生に属し、不可悔罪を犯す。他人を唆して殺させれば罪はさらに重く、このような罪人は聖賢や菩薩であるはずがない。

ある者は言い訳をする:「私たち菩薩は畜生が如来蔵から現れたものであることを知っている。肉を食べることも如来蔵が現じたものであり、したがってすべては幻化の虚偽である。あなたがはっきりと認識すれば、食べても食べていないのと同じであり、殺しても殺していないのと同じだ」と。彼の意味は、一切の法が如来蔵から現じたものであると知れば、何をしてもよく、何もしなくてもよいということだ。では問う:如来蔵の大乗法を修学するのは何のためか?悪業を隠し、自らの貪瞋痴の煩悩を隠すためか?如来蔵は悪業を造る道具なのか?如来蔵の法を学べば学ぶほど、長く学ぶほど、悪業を造ることがますます恣意になるのか?仏法を学ぶ最終的な境地はこのようなものなのか?

ある者は毎日如来蔵を語りながら、毎日悪業を造り、毎日限りなく煩悩に駆られ、底知れない。凡夫でさえこうはしない。仏法も如来蔵も学ばず、心安らかに善き凡夫となり、謙虚な君子のような上品な凡夫である方がよいではないか。私は邪念を吹き込まれた多くの人々に出会った。彼らは言う:「これらの表面的な現象を見るな、これらは事相上のことに過ぎない。私たちの法を見よ、私たちの法は最高で最も尊い大乗如来蔵法であり、稀有で得難いものだ」と。私は不思議に思う:このように稀有で得難い大乗如来蔵法を学びながら、事相上の問題を解決できず、学べば学ぶほど事相が乱れ穢れ、道に背くのであれば、これらの法は何のためか?自己の体裁を整えるためか、それとも無明を消滅させ解脱を得るためか?

解脱について言えば、またある者は言う:「私たち大乗菩薩は解脱しない。阿羅漢こそが解脱する。菩薩は解脱しない」と。ここにはどんな意味が含まれているのか?菩薩たちはすべて五蘊(ごうん)の世間法に縛られ、煩悩に縛られ、無明に縛られ、命終にはこれらの束縛によって三悪道に縛られ、六道輪廻に縛られ、凡夫と何ら変わらない、ということか?もしそうであるなら、このような菩薩は凡夫と変わらず、なる必要もない。


——生如法師の開示
前へ前へ

強制堕胎の罪は誰のものか?

次へ 次へ

福報を現金化する行為の現れ方

ページトップへ戻る