衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月10日    水曜日     第3 回の開示 合計901回の開示

離念霊知心とは何でしょうか

第八識はあらゆる時に遍く、あらゆる地に遍く、あらゆる処に遍く、あらゆる界に遍く、あらゆる法に遍く存在する。あらゆる時に遍くとは、第八識が刹那刹那に存在し、衆生を離れたことがなく、第七識の意根を離れたことがなく、五陰を離れたことがないことを意味する。あらゆる地に遍くとは、三界九地の衆生すべてに第八識が存在し、一切の衆生に第八識があり、三界九地に生存するすべての衆生に第八識が存在することを指す。たとえ三界を出て無余涅槃に入ってもなお第八識は存在するが、ただ衆生自身が存在しなくなるのみである。

あらゆる処に遍くとは、第八識が六根に遍く、六塵にも遍く、衆生の六根が六塵に触れる時、常に第八識の存在と顕現があることを示す。あらゆる界に遍くとは、六根に第八識があり、六塵に第八識があり、六識にも第八識があることを意味する。あらゆる法に遍くとは、存在する法すべてに、認識されようとされまいと第八識の住持があり、色法にも心法にも第八識の執持があり、有為法にも無為法にも第八識の住持があることを指す。存在する法あるところ、一切の人・事・物・理に、必ず第八識の住持がある。

多くの人が理解していないのは、離念の霊知心が第六識か第八識かという問題である。今この離念の霊知心を分析してみよう。離念とはこの時たまたま念頭や妄想がなく、霊知とは霊々たる覚知で、自らが離念であることを知り、自らに念頭がないことを知り、一時的に妄想や思想がないことを知り、離念の状態において他の境界をも了知し得ることを指す。この離念の境界にはいったいいくつの識が存在するか。第八識があらゆる時に遍く存在する以上、この時確実に第八識は存在する。さもなくば五陰も存在せず、七つの識も存在せず、離念の状況も存在し得ない。

この時第七識は存在するか。もちろん存在する。もし第七識がなければ、衆生は無余涅槃に入り、離念霊知の状況はそもそも現れ得ない。ここに第六識は存在するか。もちろん存在する。第六識が断滅する五つの状況——睡眠無夢時・昏迷時・死亡時・無想定・滅尽定——に該当せず、離念霊知はこれら五種に属さない以上、第六識心も存在する。さらに自らが無念の法塵境界を了知できることは、離念霊知時に知る心がまさに第六識であることを示す。離念霊知時に前五識があるかどうかは、色・声・香・味・触の五塵存在を了知し得るかどうかによって判断され、それが五識の了知である。

離念霊知時に少なくとも第八識・第七識・第六識の三識が存在するならば、この時に悟りを開いたと言う者がいるなら、いったいどの識を悟ったのか。ここに大きな差別が生じる。正しく悟れば第八識を悟り、誤って悟れば第六識を悟る。第七識は一般人が容易に悟り得ず、第八識も容易に悟り得ない。これには特別な条件、仏の説かれた菩薩の六波羅蜜の条件が必要である。六波羅蜜の条件を具足しなければ、第八識を悟ることは不可能で、真心を明らかにして真実義の大菩薩となることができず、凡夫の位を脱することができず、未来永劫三悪道に堕ちることを免れない。

もしこの人の修行において福徳が不足し、戒律を保持せず、心性が未熟で忍辱に欠け、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の修学に励まず、禅定も未到地定を具足せず、仏法の知見も備わらず、第八識の体性も了知していないなら、この人が如何なる方法でも第八識を悟り得ないことは明らかである。もしこの時に悟ったと主張する者がいるなら、自らが悟ったのがいずれの識であるかを仔細に検証すべきである。八識の体性をすべて学び通達した上で、自他ともに悟った内容を判断すれば、悟りの真偽が明らかとなる。

——生如法師の開示
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