衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月10日    水曜日     第4 回の開示 合計902回の開示

無上菩提を証得する方法とその果報

経典を聴聞せず、深く経蔵に深入りしなければ、如何に精進修行すべきかを知ることはできません。経蔵に深入りし、正念をもって如理に思惟することは、ただ経蔵に深入りするだけでは足りず、正念をもって思惟することが極めて重要です。これにより信根・精進根が絶えず増長し、仏はこれに依って無上菩提を証得できると説かれています。特に仏がこの経で説かれる諸法が夢幻の如き法門において、禅定の中で深く観行を修めれば、夢幻観を証得し、ついに初地に入ることができるのです。

無上菩提を証得する果報は甚だ殊勝です。第一に世俗法上の果報として一切の富足安楽を得、仏法を修学して道果を証得する者は悪道に堕ちず、第二に生まれる所において富貴栄華の果報を享受します。過去の禅師方が大乗の果を証得した後、再び人間に生まれれば皆国王大臣となることができ、証得する果位が高ければ高いほど、天上・人間における地位も高くなります。これを世俗法の富楽と申します。

我ら仏法を学ぶ者も、多く福を修め、慧を修めるべきです。福を修める功徳は、世間法上の富貴を得させてくれます。仏は両足尊であります。両足とは何か。福徳と智慧の二つです。智慧のみあって福徳がなければ仏となることはできず、福徳がなければ世間の人々の礼敬・恭敬・供養を感得することもできません。故に経典を誦する時、これは福を修めることでもあり慧を修めることでもあります。座禅もまた福を修め、仏を礼拝するのも福を修めるのです。ましてや財施と法施によって衆生を利楽することは、更に福を修めることになります。福慧両足尊、この両面を具足円満してこそ無上士となるのです。

精進して仏法を修学すれば、無上の菩提を証得し、世間の一切の渇愛を消除することができます。渇愛とは飢渇・貪愛、すなわち三界世間法に対する極度の渇望であり、所有を渇望して貪愛の心を生じ、貪り執着して捨てられなければ、三界を出ることができず、三界において輪廻し苦しみを絶えず受けることになります。

この無上菩提は世間の一切の我慢を消除します。凡夫衆生は皆深重なる我慢を有しています。何を我慢というか。第一に衆生は我の存在を認め、五陰を我と執取します:色身は我、感受は我、見聞覚知は我、想陰は我、身口意行は我、六識の識別性と了別性は我。凡夫はこれを以て我とし、甚だしく我を執着します。我見・我執の心に依る故に我慢心を生じ、自己の五陰十八界が他衆生の五陰十八界より優越すると考え、世俗法の某些の面において他衆生より殊勝であるとし、故に内心自らを高く掲げ、他衆生を欺凌するのです。

——生如法師の開示
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