心は罪の首であり、もし欲心がなくて淫行があれば、戒を犯さない。少なくとも大乗は心戒を主とし、主に心行・心性の善悪の属性を観察する。すでに初禅以上の禅定を有する地上の菩薩は根本の淫心を断除しており、衆生を接引摂受するために、ときにやむを得ず淫行に及ぶことがあるが、その際心に波動がなく、貪欲がなく、すなわち行淫のときにいかなる生理的反応もなく、心行を動かさないので、根本的に戒行を犯すことができない。楞厳経にも、淫欲を断じた人が行淫のとき、味わいが蝋を噛むようで、風味がなく、いかなる楽しみもなく、いかなる貪楽の心もないと説かれている。このような心でなければ戒を犯すことはない。
しかし、初禅以上の禅定がなく、貪欲の煩悩を断除しておらず、心に把持がないならば、必ず境界を越えて戒を犯すことになる。それゆえ、初禅以上の禅定に安住していない人は、決して自分の道行を試そうとしてはならず、このような行為を学んではならない。「私も心を動かさないのだから、戒を犯すことはない」と言ってはならない。自分の智慧が足りず、心を動かさないということの意味を理解できないならば、往々にして正確で如実な判断を下すことができない。
瑜伽師地論における大乗菩薩戒は、初禅定を有する地上の菩薩のために特別に説かれた菩薩戒であり、地前の菩薩には守持できず、実行できない。まして凡夫は言うに及ばない。ところが今日、ある団体は凡夫に瑜伽菩薩戒を授けている。授戒を受ける資格も守る資格もない者自身が、どうして他人にこの戒を授ける資格があり得ようか。まったくでたらめである。娑婆世界の衆生の大多数は、大小さまざまな物わかりの悪い子供のようなもので、気ままで勝手きままであり、教化しにくい。
五戒において戒められる邪淫の行為は、戒の相である。何が邪淫で何が正淫かを分別しなければならない。正とは、夫婦間の法律の規定に適い、双方の心意に順応するものであり、戒律の上では五戒を犯さないが、ときに菩薩戒を犯すことがある。邪はこれと反対で、不正であり、公民の権益を侵犯し、当事者あるいは関係者の利益を侵害するものである。未婚での同居は法に触れず、戒も犯さないが、現代の公序良俗には違反する。古代には婚姻制度がなく、登記や証書などもなかった。現代のルールから言えば、夫婦間のこともすべて未婚での同居行為に当たるが、この行為が双方の家族および社会大衆の承認を得ており、当時の道徳規範に違反していないので、これも正に属するのである。
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