衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年11月12日    水曜日     第1開示 合計4523開示

五戒を守るとは人となること

実は五戒は身と口のみに関わり、意には関わりません。意がどうであれ、身と口が犯さなければ、戒を犯したとはみなされません。したがって五戒は心を戒めることには触れず、身と口を戒めることだけを説き、小乗戒に属します。身を守り口を慎み、それをしっかり守れば、人としての修養も良くなり、来世では引き続き人として生まれることもでき、我見を断って聖果を証することもできます。しかし大乗の法を修め悟りを開こうとするなら、菩薩戒を受け、菩薩戒を守る必要があります。五戒をしっかり守れば徳が備わり、人格的修養が身につきます。五戒を守ることができなければ人格は不完全で、修養は十分ではなく、人としての徳が具わりません。凡夫の人格的修養すら備わっていなければ、人を超えることなど到底不可能であり、我見を断って聖賢の域に至ることはできません。

もし五つの戒すら受けようとせず、受戒後も守りきれないなら、出家者の数百もの戒をどう守りきれるでしょうか。多くの在家居士はいつも出家者がどうのこうのと誹謗しますが、自分自身はどうなのでしょう。出家者の世俗を捨て世俗に背を向ける心の行い、そして数百もの戒律に縛られる心の行いと、どれほどの差があるでしょうか。その差はあまりにも大きく、詳しくは語れません。五戒はわずか五つで、一見単純で容易そうに見えますが、実は単純でも容易でもなく、完全に五戒を守れる者はごくわずかです。盗戒と妄語戒は守りにくく、大多数の人はその内実と範囲を明確に理解しておらず、違反する者は少なくありません。

五戒を守ることは、つまり人としての道を歩むことです。人としてさえまともに生きられないのに、何の果報や来世の三途を論じられましょうか。多くの人は五戒すら受けずに、自分は聖果を証し悟りを開いたと暗示しています。小乗の五戒の身と口すら守れないのに、どうして大乗菩薩の心意戒を守れるでしょうか。意を守ることは最も困難なことであり、心を動かし念を起こしても悪業を造らないことは非常に難しいことです。そうであれば『瑜伽師地論』の菩薩戒はなおさら守りにくいものです。もし根本的な煩悩を断たなければ、この瑜伽菩薩戒を守ることなど思いもよらないことであり、それは煩悩を断った地上の菩薩がこそ受け持って守りうるものです。菩薩はただ心を動かし念を起こすことが善であるか、慈悲と智慧であるかだけを顧み、身と口の表面的な行為には関知しません。衆生に利益をもたらすことができるなら、為すべきことは必ず為さねばならず、そうしなければ菩薩戒を犯すことになります。

衆生が理解できるかどうかについては、衆生の智慧のレベルではもちろん理解できません。であればなるべく衆生に知られないようにします。なぜなら菩薩はすでに大人に成長しているのに対し、衆生はまだ子供であり、智慧は低く浅く、見識がないからです。ですから大人のすることは時として子供に知らせてはいけないのです。このような戒は、地前の菩薩ですら成しえません。ましてや凡夫の衆生においてなおさらです。しかしこの戒を学び受けようとする者も少なくありません。このような菩薩戒体がどこから得られるのか分からず、無知な者のすることはすべてでたらめです。

身と口は六識の造作であり、意は意根の心行です。意根を制御できれば、身と口は必ず犯しません。逆に、たとえ意根の心念が正しくなくても、意識が強引に抑圧して清浄を装えば、身と口も犯さないことがあり、身と口が犯さなければ五戒は犯されません。意根を制御し意根を調伏することは非常に難しく、意根を薫習し成功させ、煩悩を断ち、自動的に自覚的に清浄でいられ、束縛を必要としないようにすることは、なおさら困難です。

煩悩を断たなければ、意業は必ず犯されます。したがって煩悩を断つには必ず意根の煩悩を断たねばならず、そうして初めて自動的に自覚的に、意識の強引な抑圧なしにいられます。もし意識の煩悩だけを断つなら、それは煩悩の抑圧に過ぎず、煩悩を断ったことにはなりません。意識が油断した時、意根は突然現行して煩悩を現し、川の水が堤防を決壊させ氾濫するかのようになります。


——生如法師の開示
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五戒を受けることと受けないことによる悪業の果報の違いは何ですか?

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