衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年11月29日    土曜日     第1開示 合計4538開示

金剛経講解.我相の特徴

円覚経の中で世尊は微細な我相を描述された:例えばある人が全身くまなく調和して快適で、四肢がすべてゆったりと弛み、身心が寂静にして極めて寂静であり、ふと身体の存在を忘れ、身体の置かれている方位も知らないとする。このとき針で軽く身体をチクリと刺すと、すぐに痛みを感じ、無意識に「我が痛い」と感じ、心の中の我相が現れる。衆生は皆無意識に身体を我と考え、覚知を我と考え、五蘊を我と考える。これは非常に微細な我相であり、衆生に普遍的に備わっている。

金剛経に説かれる我相には、粗いものも細かいものもすべて含まれており、粗重な我相が主であって、比較的粗重なものと非常に粗重な我相は、衆生に普遍的に具足している。断我見していない凡夫の身に現れる我相は、常にあらゆるところにあり、特に顕著であるのに、いずれも覚知せず、覚悟がない。仏法を学ぶ者と学ばない者を問わずそうである。仏法を学び修行する人々の中にも、我見・我相が非常に深刻な者がいる。自己を誇示するために、すぐに自分は並外れていて人に優れていると思い込み、いつも意図的であれ無意識であれ、自分が果を証した、明心したなどと誤解し、いかなる証拠もなしにあちこちで宣伝し、他人の尊崇と特別な目で見られることを望み、ついに他人に勝った、ついに胸を張れるようになったと感じて、極めて自慢し傲り自大となり、眼中に人なく、行いは弊悪となる。これらはすべて我相が具足している表れであり、その中には人相や衆生相もある。人相・衆生相・寿者相があれば、必ず我相があり、我相があれば必ず後の三相がある。四相は分けることができない。

我相は多くの場合、人相と緊密に結びついている。それゆえに互いの比較や見比べが生じ、嫉妬があり、競争があり、争端があり、言い争いがあり、さらにはさまざまな戦争さえ生じる。国と国の戦争は、個体の我相・人相が集まって集団の我相・人相となって現れたものであり、各団体の競争や争端も同様である。小我が大我となり、我相はさらに大きくなり、作用力もさらに大きくなる。個体には我がないように見えて、実はすべて我相なのである。

世俗界における我相はさらに甚だしい。世の人は一般に、権勢・名利・身分・地位・栄誉・階層・金銭などの標識を我相とし、その中に深く陥り、執取して捨てず、虚しい面子のために、人に一目置かれるために、いかなる代償も払うことができ、他人の視線と評価を極めて気にする。しかも自分の優れた点や独特なところをできる限り人に誇示し、他人の羨望を得て、自分の虚栄心を満足させる。こうした事例は挙げればきりがなく、至る所にあるので、もう挙げない。その中には人相の関与があり、さもなければ他人の視線や評価など気にしないはずである。我相があるがゆえに、そのいわゆる我のために、果てしなく貪・瞋・癡を働き、思うままに五欲の楽を享受し、六根・五官は一刻も閑に止まることがない。眠ってさえいるときも、財・色・名・食を案じている。凡夫とはこのように、少しも高遠な志向がなく、低い次元の五欲に貪り、金を稼いで享受するだけで、それだけである。

要するに、凡夫は我相があるがゆえに、一切の身口意行が我相を中心に回転し、いずれも我相を十分に誇示している。我相がなければ、それほどの貪欲はなく、生活ははるかに簡単になり、それほどの造作はなく、多くのことは自動的に息止する。心なければ事はなく、欲なければ求めず、身口意行はきわめて謙虚になり、もう目立ちたがらず、自己を誇示し、我を中心とすることを好まない。一人の心中に我相があるかないかは、言動に無意識に表れ、隠すことはできず、偽ることもできない。骨の髄の習気を抑えることができないからである。


——生如法師の開示
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金剛経講解.我見より生じた我相の表れ

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金剛経講解.妙行無住分第四

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