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日常法話

2025年12月06日    土曜日     第1開示 合計4543開示

金剛経講解.正信希有分第六

原文:须菩提白佛言。世尊。颇有众生得闻如是言说章句。生实信不。佛告须菩提。莫作是说。如来灭后。后五百岁。有持戒修福者。于此章句。能生信心。以此为实。当知是人。不于一佛二佛。三四五佛而种善根。已于无量千万佛所。种诸善根。

解釈:須菩提が仏に申し上げた。世尊よ、本当にこのような言説と章句を聞いて、真実に信受する衆生がいるでしょうか。仏は須菩提に告げて言った。そのように言ってはならない。如来の滅後、後の五百年には、持戒して福を修める者がおり、これらの章句に対して信心を生じ、これを真実と為すことができる。この人はただ一仏・二仏、三四五仏においてのみ善根を植えたのではなく、すでに無量千万の仏のところに諸々の善根を植えたのだと知るべきである。

前品において世尊が開示されたのは、凡所有相皆是虚妄,若见诸相非相,即见如来である。須菩提はこれを聞いて疑問を生じ、衆生がこのような深い章句の義理を聞いて、果たして真実に信受できるかどうかを疑った。この問題の提起は非常に時宜を得ている。衆生の根機の利鈍はそれぞれ異なり、福德と智慧も異なるので、法に対する信受も異なるからである。薄福で鈍根の衆生は真実の大法を信受することが難しく、しばしば疑い謗る。古来よりこのようなことはあった。法華の会座で、五千人の弟子が大乗を信受せずに退席しなかったか。これも正常な現象であり、歴劫を通じて、実相の法を信受せずに法を謗ることがあった。衆生は結縛を断していないので、恒に我見・見取見・疑見などの邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を生じ、正知見を具えていないため、法を謗り信じないのは必然である。

我見 (ātma-dṛṣṭi) とは、五蘊十八界を我とする知見であり、この我は真実であり、五蘊の機能作用は真実であると考えることである。見取見とは、衆生が自己の知見を主とし、正しいか否かにかかわらず、他人がたとえ正しくても信受しないことである。また、衆生は実相心を証得していないので、世間および出世間に対する種々の見解・知見はすべて誤った邪な正しくないものであり、外道の六十二見のようなものである。疑見とは、衆生が正しい法理と善知識に対して正しい判断と認知をすることができず、心に疑いの結び目を抱くことである。これらの結び目が衆生をしっかりと縛り付けているため、衆生は無明から抜け出すことができない。さらに衆生の福德因縁が具足していないため、法を謗り三宝を謗ることは避けがたく、まして末法の時期においてはなおさらである。

世尊の正法は一千年、像法は一千年、末法は一万年である。如来の滅後の後の五百年とは、おそらく末法が滅する前の五百年を指す可能性がある。その時には持戒して福を修める者はほとんどいないであろうが、もしいたならば、必ずや善根と福德が非常に深い人であり、金剛経が如来の身相を破し、一切の法相を破するという章句を見て、深く信じて疑わず、如来の説法が真実であると讃嘆できるなら、その人は必ずや希有難逢の人である。金剛経の中の章句および義理を信受する人は、すべて正信の人である。

正信に達するのは非常に容易ではない。菩薩の修学の道において、すでに十信位の修学段階を経て、福を修め、戒を持ち、忍を修め、じょう (samādhi) を修め、慧 (prajñā-bala) を修める十住位の段階に入り、四加行の暖・頂・忍・世第一法を修め満了し、菩提資糧も具足して、一切の仮相を破し、実相に証入する。これは数十劫、数百劫、数千劫、あるいはさらに久遠の時劫を経て、仏法を薫修することによって、正見を具備するのである。その間に必ず無数の諸仏を経て供養しており、すでに無量千万の仏のところで経を聞き法を聞き、諸々の善根を植え、諸々の福德を積んでいるのであり、短い劫で成し遂げられるものではない。無数の衆生が発心して道を修めるが、この地歩に達するのはごく少数の人だけである。だから大部分の人が初学の段階にあるのを見ても不思議には思わない。仏道の修学は甚だ容易ではない。ただ無量劫また無量劫と生死を流転し、無明の根が深く、善根が浅いため、数日の陽光では久しく積もった堅氷を融かすことはできないのである。

原文:闻是章句。乃至一念。生净信者。须菩提。如来悉知悉见。是诸众生。得如是无量福德。

解釈:このような章句を聞いて、乃至一念に清浄 (viśuddha/pariśuddha) の信心を生じる者は、如来はすべて知り、すべて見る。これらの衆生はこのような無量の福德を得るのである。

仏はまた一切種智 (sarvākārajñatā) を具足した人とも称される。福德と智慧はともに円満具足し、世間および出世間の法をすべて了知し、如来蔵 (tathāgatagarbha) の中に含蔵されている種子・機能をすべて了知していて、一法として知らないものがないので一切種智と称される。この智慧は微細なことに、十方世界が同時に雨が降っても、仏は具体的な滴数を知っている。一つの世界に十億の四大洲、十億の四大海、十億の須弥山、十億の欲界六層天、十億の初禅天、および無数の二禅以上の諸天がある。十の方角にどれほどの星体があり、どれほどの範囲で、降る雨の滴数を仏はすべて了知している。仏の智慧はさらに微細なことに、十方世界のすべての衆生が一つの心念を生じても、仏はすべて了知している。しかし衆生は自分自身の心念さえしばしば覚知しない。念仏 (buddhānusmṛti) や読経を長い間していて、初めて自分がずっと妄想を打っていたことに気づく。意根が縁ずるものは何であれそれを思い、心猿意馬で、制御するのが非常に難しい。

十方世界の衆生はどれほどいるのだろうか。我々の地球という一つの星体上の人類はおよそ七十億余りいる。畜生はどれほどいるのか。数えきれない。一匹の魚が産卵すれば成千上万の卵を産むかもしれず、一メートル四方の土地には無数の蟻がおり、各種の昆虫や細菌はなおさら数えられない。至る所に細菌が発生する。我々の表皮のあらゆる肌の部分はすべて細菌であり、九つの穴および流れ出る涙や汗などの分泌物はすべて細菌であり、皮膚をめくれば、中の筋肉・筋骨・骨髄・血液・脳漿・内臓はすべて細菌であり、一箇所としてないところはない。

仏経によれば、これらの細菌は三頭六臂で、五顔六色、奇形怪状で、互いに殺し合い飲み込み合う。もし数量や種類のバランスが崩れると、我々は病気になる。皮膚病はまさにそうである。だから薬で殺菌すると、別の一部の有益菌が殺され、また別の病気になる。鬼神類の衆生は、荒れ山や僻地、川辺や林のほとり、十字路の辻など至る所におり、さらには一本の小草にも、福のない衆生が付着している。楞厳経の中で世尊は言った。清浄 (viśuddha/pariśuddha) の比丘は岐路を行くに生草を踏まず、まして手で抜くことはない、と。福のない衆生は一本の小草を家として草に依りかかっており、もし踏んだり手で抜いたりすれば、衆生の家を壊すことになる。さらに地獄の衆生、阿修羅類の衆生、人間でない衆生もおり、一つの小世界の衆生だけでこれほど多く、まして大千世界、十方の大千世界にはどれほどいるだろうか。

これほど多くの衆生が、一人ひとり心念を起こしても、仏はすべて了知している。それゆえ、どの衆生の縁が熟したか、善根が成熟したか、仏はすべて知っており、相応の因縁を手配して、度されるようにされる。だから、もし人が金剛経の中の章句を聞いて、一念の浄信を生じるなら、如来は当然すべて知りすべて見るのである。各衆生が無始劫以来、どの道に受生し、どのような業行を造作し、どのような果報を受け、またどれほどの善根を植え、どれほどの福德を積んだか、いつ道に入り道を成すことができるか、仏はすべて了知している。

原文:何以故。是诸众生。无复我相人相众生相寿者相。无法相亦无非法相。

解釈:なぜそう言うのか。これらの衆生は如来の身相に執著せず、凡そすべての相は皆虚妄であることを了知して、すでに我相・人相・衆生相・寿者相がなくなっているからである。彼らは先に四種の相を破し、さらに進んで一切の法相を破し、心に法相なく、また非法相のないところまで修めたのである。

法は有為法と無為法、縁生法と非縁生法に分けられる。五蘊は法であり、十八界は法であり、三界はすべて法であり、真如もまた法である。人に認知されうるものはすべて法であり、見えるか見えないかにかかわらず、存在するものはすべて法である。真法と妄法があり、生滅法と不生滅法があり、因縁によって成る法と、先天からあって因縁によって成るのではない法があり、各角度、各方面から見て、いずれも区別がある。

法には因縁法と非因縁法がある。因縁法はすなわち空であり、すなわち妄である。非因縁法は本来からある法であり、すなわち真実法、不壊滅法である。直接に成仏を指し示す法は、すなわち究竟法であり、明心見性の法、真如の法はすなわち究竟の法であり、究竟法に達する方法は方便法である。法相は有であり、非法相は空である。金剛経の中の章句に対して一念の清浄信を生じうる人は、四相を破しただけでなく、法相と非法相をも破している。

原文:何以故。是诸众生若心取相。即为著我人众生寿者。若取法相。即著我人众生寿者。若取非法相。即著我人众生寿者。是故不应取法。不应取非法。

解釈:なぜそう言うのか。これらの衆生はもし心で相を取れば、すなわち我・人・衆生・寿者の四相に執著することになるからである。もし法相を取れば、我・人・衆生・寿者の四相に執著し、もし非法相を取れば、我・人・衆生・寿者の四相に執著する。それゆえ、法を取るべきではなく、非法を取るべきでもない。

衆生はもし心で相を取れば、どのような相を取るにせよ、我があって相を取るのであるから、四相に執著することになる。衆生はもし有法の相を取れば、我があって相を取るのであるから、四相に執著することになる。衆生はもし無法の相を取れば、我があって無法の相を取るのであるから、四相に執著することになる。衆生が有法の相を取るにせよ無法の相を取るにせよ、いずれも我があって相を取るのであるから、すべて四相に執著することになる。

法相は三界の有法であり、三界は衆生の認知に依って存在する。我があって初めて三界の法相を認知できる。だから、もし法相を取れば、一切法は有法の相があると考えることになり、すなわち我・人・衆生・寿者の四相に執著することになる。もし非法相を取れば、一切法はすべて空で、すべて存在せず、法相はないと考えることになり、これも同様に四相に執著することになる。

——生如法師の開示
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金剛経講解.なぜ身相をもって如来を見ることはできないのか?

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金剛経講解・なぜ一念浄信の者は四相無く、法相無く、無法相も無いのか?

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