原文:須菩提よ、汝はどう思うか。如来は阿耨多羅三藐三菩提を得たか。如来は何か説くべき法があるか。
釈:須菩提よ、お前はどう思うか、如来は阿耨多羅三藐三菩提を得たのか? 如来は何らかの法を説いたことがあるのか?
阿耨多羅三藐三菩提とは、無上正等正覚のことであり、無上の真実なる覚受と悟りを得て、無明をことごとく破り、心がすべて明と覚に満ちたとき、究竟の菩提を証得し、仏道を成就し、仏果を円満するのである。そもそも「阿耨多羅三藐三菩提」という固定した法など存在しないゆえ、真に固定不変の成仏者もおらず、一切の法は因縁によって成る。仏の説かれた法も因縁によって成り、衆生の縁に随順する。衆生に成仏しようとする因があれば、衆生を成仏させ得る法を説き出すのである。縁が異なれば、世尊の説かれる法も異なり、したがって仏の説かれた法は、最終的には再び執着してはならない。なぜなら、固定して永遠に滅せず変わらない法ではなく、説き出し得る法は、本来自体が固定不変の真如の法ではなく、しかし真如自性から離れてこれらの法が生じることもないからである。
では、誰が仏道を成就し、仏果を得たのか? 妙覚菩薩は成仏前の最後の身の菩薩であり、成仏するために人間界に来て八相成道する。母胎に入る時、菩薩の色身は滅し、意根(末那識)と異熟識(阿頼耶識)が入胎する。出胎時には六根が具足し、六識が具足し(人間は七日内に眼識なし)、五蘊が具足し、外相は衆生と異ならない。この新たな五蘊はもはや妙覚菩薩の五蘊ではなく、色身と六識はすでに替わっており、ただ意根と異熟識だけが元のもので、連続しているのである。その後出家して修道し、夜明けの明星を見て大悟見性した時、七つの識の無明が断じ尽くされ、第六識は妙観察智に転じ、意根は平等性智に転じ、次いで前五識は成所作智に転じる。七つの識がすべて転じ終わると、第八識である異熟識に含蔵されていた七識の染汚種子が滅し尽きて大円鏡智となり、無垢識とも呼ばれる。八つの識がすべて転じ終わると、仏道が円満し、仏果を得て、仏と称される。
では、この仏とは誰が作り、仏果とは誰が得たのかを思惟しよう。まず、仏の無垢識は無所得の心であり、それ自体は何も得ようとせず、たとえ得たとしても置く場所がなく、何も得られない。それは思想を持たず、心の働きがなく、自らが真実であるとか、自らが仏であるとか、自らが如何であるとかを決して自認しない。すべての名称は人が付けたものであり、何であるか何でないかという概念を持たない。また、善悪、染浄を問わず、いかなる法をも執着しない。執着しないがゆえに、決して染まることがなく無明がない。執着しないがゆえに、何もせず、何にもならない。したがって、仏の果位を取らず、仏を為さない。もしそれを仏であると言うなら、それは人が勝手に授けた称号であって、自らが自認し自らを称したものではない。
次に、仏の五蘊を見る。衆生の五蘊は五陰と呼ばれ、陰とは覆い隠す意味であり、衆生が真実正理を認識することを遮り、邪見を生じさせる。一方、仏の五蘊は仏の智慧を遮らず、仏はすでに究竟の覚りを得ているので、五蘊と呼ばれる。仏となった五蘊身は三十二相八十種好を具え、非常に殊勝であるが、涅槃の際には滅する。生滅の法は仏ではなく、仏果を取ることもできず、仏を為すこともできない。仏の受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は取ることができても、やはり生滅の法であり、涅槃の際にはすべて滅する。四蘊は仏ではなく、仏を為すことはできない。意根は永遠に未来世まで続き、永遠に滅せずに残るが、それも生滅性であり、滅することが可能である。ただ仏の色身五蘊を永遠に生起させるために、わざと滅さないだけであり、また単独の意根である平等性智だけでは仏を為すことはできない。したがって菩提とは無所得のものであり、ゆえに阿耨多羅三藐三菩提と称すべき定まった法もないのである。
原文:須菩提言く、「我が仏の説かれたる所の義を解するに、定まった法無し、名づけて阿耨多羅三藐三菩提と為す。また定まった法無し、如来の説くべき。何を以っての故か。如来の説かれたる所の法は、皆取るべからず、説くべからず。非法にして、非非法なり。一切の聖賢は、皆無為の法を以ってして差別有り」。
釈:須菩提が言うには、私が仏の説かれた法義を理解する限り、先天に固定不変の法で阿耨多羅三藐三菩提と称すべきものはなく、また固定した決定不変の法もなく、如来が説くべきものはない。なぜそう言うのか? 如来の説かれた法は、すべて執着して取ってはならず、すべて説くことができない。如来の説かれた法は、不生不滅不変異の真実の法ではなく、本来のあの無為の法でもないが、かといって無為の法ではないわけでもない。一切の賢人聖人は、皆無為の法によって差別があるのである。
阿耨多羅三藐三菩提は無上正等正覚とも呼ばれ、すなわち仏道を成就したことを指すが、成仏という事柄は先天に存在する固定不変の法ではなく、後天において三大阿僧祇劫の修行によって成就されるものであり、したがって生滅の法であり、無から有へと生じたものである。ゆえに定まった法ではなく、実有の法でもない。
如来にも定まった説くべき法はない。なぜそう言うのか? 如来が娑婆世界で四十九年間に説かれた法である三蔵十二部経は、すべて実有として執着してはならず、ましてや如来が十方世界で説かれた一切の法も実有として執着してはならない。なぜ実有として執着してはならないのか? 仏の説かれた法はすべて様々な因縁によって現れたものであり、もし因縁がなければ、これらの法は存在せず、仏陀も何も説かないであろうからである。したがって仏の説かれた法も生滅の法であり、実有不変として執着してはならない。仏陀が衆生を度すという大事業でさえ、因縁の成熟と具足が必要であり、衆生の福徳因縁や善根因縁、解脱の願いなども必要である。一つの因縁が欠けても、仏陀は衆生を度すことができない。そして衆生を度すために説かれる法は、因縁によって定まり、衆生の根器や福徳、智慧によって定まる。ゆえに法には定まった説くべき法がないのである。
定法とは固定不変で、本来存在する法であり、因縁によって転じず、因縁によって変異せず、実在する不変の法であって、どんな衆生にも同じ法を用い、衆生がどんな根基であろうと、どんな因縁が現前しようと、同じ法を用いるものである。明らかに事実はそうではなく、そのような法は存在しない。因縁によって生じた法は、先天に存在する法ではなく、いずれも定法ではない。したがって、如来が衆生を度すには定まった説くべき法がないと言うのである。如来の説かれた法は無から有へ生じ、有はまた無に帰し、彼岸に到れば捨てられる法であり、また空の法でもある。ゆえに法と名づけられるが、実際には法に自性がなく、自体性を説くべきものがない。したがってそれは非法である。しかし、まったく非法というわけでもない。畢竟虚妄の用があり、仮の法ながら仮に用い借りることができ、衆生はそれを用いて成仏し、成仏後には捨て去る。ゆえに仏の説かれた法は非非法であり、法ではないわけではないのである。
如来の説かれた法がすべて非法であり、因縁によって生じた法であり、定まった法がないならば、如来は異なる根器の衆生に対し、異なる因縁に随って説かれた法を、衆生が修学した後、異なる次元の無為法を証得する。大乗・中乗・小乗の無為を含み、同一乗の中でも無為法に差別がある。こうして異なる次元、異なる差別の聖賢が成就され、一切の聖賢は善根・福徳・因縁の違いによって、証得した無為法によって差別があるのである。
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