衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2025年12月23日    火曜日     第1開示 合計4559開示

金剛経講解・荘厳浄土分第十

如来は燃灯仏のところで、果たして法を得たのだろうか?

原文:佛告须菩提。于意云何。如来昔在然灯佛所。于法有所得不。不也。世尊。如来在然灯佛所。于法实无所得。

解釈:仏は須菩提に告げて言った。あなたはこの問題をどう見るか。如来は昔、燃灯仏のところで、法について何かを得たことがあろうか。須菩提は答えて言った。いいえ、世尊。如来は燃灯仏のところで、法について実に何も得るものはありませんでした。

本師釈迦牟尼仏は燃灯古仏のところで八地菩薩を証得し、授記を受けて成仏するとされた。明らかに八地菩薩を証得したのであり、当然、八地菩薩の法を得たのであり、また明らかに授記を受けたのであるから、すべて所得のあることである。それなのに、なぜ無所得と言うのか。これらの事は現象界にはあるが、実際の理地にはこのような事はなく、現象界は空であり、金剛般若心が幻化したものでもあり、あって而して無いのである。如来の心上にもまた一法も空しく、いかなる執念もなく、自分が本当に法を得た、本当に授記を受けたとは思っていない。如来がもしこれを実と認めるなら、心中に法があり、法の空幻を証得したことにならず、八地菩薩ではなく、授記を受ける資格もないことになる。如来には八地菩薩の証量があり、心は空で無為にして何物もないからこそ、燃灯古仏は授記して成仏させたのである。

凡夫はどう考えても思い切れない。如来はあれほど大きな法を得たのに、得ていないと言い、成仏の授記というこれほど大きな事を、何とも思わず、わずかの掛礙や思いもないとは、これはどのような心なのか。一般の凡夫なら、このような事に遭遇すれば、とっくに大喜びして、感激のあまり、駆け回って知らせ合うところである。もちろん、これは実相を証得していない凡夫の有所得の心态であり、だからこそ、このような一般の人は法を得ることもできず、まして授記を受けることはないのである。仏の心は透徹しており、眼は明るく、みだりに人に授記することはない。

釈迦菩薩が燃灯古仏に出会った時、ちょうど八地に入ったところであった。それ以前、釈迦菩薩は生生世世において諸仏に値遇し、国王、転輪聖王、諸天の天主となり、飲食・衣服・臥具・医薬の四事をもって仏を供養し、決して途切れることはなく、さらには身をもって仏を供養した。しかし、どの仏も釈迦菩薩に、いつ仏道を成就するかの授記をしなかった。それは、菩薩がその当時、仏法の修証において、まだ有為の行の段階にあり、有所得の心をもって修証し、それぞれの世尊を供養していたのであって、まだ無所得・無所求の無為に達していなかったからである。燃灯古仏に出会うに至って、釈迦菩薩は八地の無為不動地に入り、心中に所為も所得もなくなって、はじめて燃灯仏は釈迦菩薩に授記したのである。いつ仏道を成就するか、仏国土はどのようなものであるか、弟子はどれだけいるか、寿命はどれほどか、仏法はどれだけ世に住するかを。

仏が菩薩たちに授記するのは、たいてい菩薩たちがすでに八地に入ってからである。八地菩薩の仏法に対する修行はすでに念不退に達しており、すべての八地菩薩の修行のスピードはほぼ同じであり、菩薩たちの成仏の時劫は定まっていて、もはや変わることはない。この時に菩薩に授記すれば、誤りが生じることはない。ところが初地から七地の菩薩の修行の境地は行不退であり、修行と度衆の面での行為は退転しない、何があっても修行し衆生を度すが、時に逆縁に遭うと、心念上の退転が起こることがある。この退転の時間の長短はまちまちで、一日二日のこともあれば、数時間のこともあり、数分のこともあり、一刹那のこともある。

このような心念の退転があるために、修行のスピードは一定ではなく、授記にはどうしても時間上の偏差が生じやすく、また菩薩に懈怠心を生起させてしまうこともある。明心開悟から初地に入る前は位不退であり、修証の果位は退転しないが、なお行為と心念の退転がある。時に世俗法に障されて世俗の事務に忙殺されたり、逆縁に障されたり、病魔に障されたりして、修行できなくなることがある。しかし、修行するにせよしないにせよ、明心の第七住位、十行位、十回向位は退転しない。

なぜ釈迦菩薩は八地不動地において、法について実に無所得だったのか。八地菩薩は煩悩を断しただけでなく、煩悩の習気をも断している。解脱の功徳受用もまた、三明六通の大阿羅漢を超えている。人我執はとっくに断じ尽くされ、法我執もその大部分が断除され、無生法忍の智慧もきわめて深く鋭く、人空と法空をともに証しており、心中には「我が法を修行した、法を証した、法を得た」というものはなく、同時に「修うべき、証すべき、得べき法がある」とも思っておらず、内心は純然たる無為の境地である。無為であり心が空であるがゆえに、作意加行を用いなくても、衆生の必要とする一切を変現でき、さらには三千大千世界という一つの仏国土をも変現できる。無所得の心は心量が極めて大きく、それゆえに極めて多くの功用がある。一方、有所得の心は心量が狭く、心の機能・作用に限界があり、完全には発揮できない。

菩薩はなぜ仏土を荘厳しないのか。まず、仏国土の形成を見てみよう。それは仏の無垢識 (amala-vijñāna) の大円鏡智 (ādarśa-jñāna) によって生じ変現されたものである。仏と縁のある衆生はそこに往生しようとし、衆生の如来蔵 (tathāgatagarbha) もまたその仏国土を変現している。仏の現す国土は、仏が三つの無量数劫の修行によって感招し化現したものである。三つの無量数劫の間、菩薩は大いなる清浄の願を発し、六度万行、十度万行を修行し、難行を行じ、難忍を忍んだ。修行した善法の種子はすべて自心の如来蔵の中に存在し、仏道を成就した後、仏の無垢識は修行の善法の種子を送り出すことができ、仏の清浄国土を造り成し、一つの三千大千世界が建立されるのである。


——生如法師の開示
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金剛経講解.菩薩が仏土を荘厳する相もまた空である

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