荘厳浄土分第十 原文:须菩提。于意云何。菩萨庄严佛土不。不也。世尊。何以故。庄严佛土者。即非庄严。是名庄严。
解釈:須菩提、あなたはこのことをどう思いますか。菩薩は仏国土を荘厳するのでしょうか。須菩提は答えて言います。菩薩は仏国土を荘厳しません。なぜそう言うのでしょうか。いわゆる荘厳仏土とは、実事や真事が有るわけではなく、ただ名相の上での荘厳であり、事は幻化したものだからです。
世俗の法相から言えば、菩薩のすべての修行、六度・十度の修行はすべて仏国土を荘厳することであり、菩薩のすべての衆生を度する事業はすべて仏国土を荘厳することです。修行の種子および衆生を度する種子は自心の如来蔵の中に留存され、種子が最大限に集積されたとき、成仏の因縁が成熟し、そこでこれらの種子を用いて荘厳な仏国土を化現するのです。だから、すべての菩薩行は荘厳仏土の行なのです。では、菩薩は仏国土を荘厳するのでしょうか。もちろん荘厳するのです。
しかし、世尊の通用の金句を当てはめれば、いわゆる荘厳する者とは、すなわち荘厳するのではなく、これを名づけて荘厳とする、ということになります。つまり、菩薩が仏国土を荘厳するといっても、真の荘厳の相はなく、菩薩のすべての行は空であり、幻化したものであり、相は有っても理は無く、有るとしても仮有であり、相もまた空であり、実質のある真の荘厳の事はなく、実質はすべて真如、一真法界、金剛般若の実相心であり、その他の一切はすべて空幻で実のないものです。一切法は、永遠に壊滅しない金剛心 (vajra-citta) 以外は、すべて名字相、仮相であり、実有と執してはなりません。菩薩が夢の中の仏事を大いに行うのも、すべて空の心、無所得の心をもって行うのであり、行って行わず、決して執著せず、名聞や利養を貪らず、見返りを求めません。凡夫はこれと正反対で、いつも心に所得があり、求めるものがあり、期待するものがあり、心が空でなく、相に執着します。
仏の国土がどのように荘厳であるかは、仏が修行の過程において発した大願が具体的に何であるか、修行の過程における行為造作がどのようなものであったか、すなわち仏の無垢識 (amala-vijñāna) の中の種子に何があるかによって決まります。菩薩が三つの無量数劫の修行を行うのは、自分の未来の仏国土を荘厳しているのであり、この荘厳の方法は根本的に世間の荘厳の方法ではないので、菩薩は仏国土を荘厳しないのです。この荘厳の方法は、真実に有るわけではなく、ただこの方式・方法に仮の名を与えて、荘厳と呼んでいるだけです。
なぜこの荘厳は真実ではないのでしょうか。菩薩が発した清浄な大願は、意根と意識の心が発したものであり、虚妄の法であり、発した後にはまた滅していきます。したがって発願とは生滅法であり、本来そなわって有り、永遠に滅しない真実の法ではありません。菩薩が菩薩道を行ずるときのすべての行為造作は、生滅法であり、すでに消失して滅しています。生生世世にわたる七識の妄心の造作もすべて滅しており、菩薩の六度万行、十度万行はすべて七つの識の妄心が行うものであり、生滅法であり、菩薩の行為は生滅法であって、すべて滅していきます。これらの六度、十度の菩薩行の荘厳の方式・方法は真実の法ではなく、永遠に存在して滅しない法ではなく、本来そなわって有る法でもないので、真の荘厳ではないのです。
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