六根は内根と外根に分けられ、有色根と無色根に分類されます。前五根は有色根であり、地水火風の四大種子によって構成される相貌を有する物質的な色根です。意根は無色根であり、四大種子によって構成されるものではなく、物質的な色法に属さず、これこそが心であり識であり、心の分別・識別作用を有します。五根には浮塵根と勝義根が含まれ、浮塵根とは外根であり、身体表面に浮かび、他人が目にすることができます。勝義根とは内根であり、後頭部に位置し、他人には見えず、天眼のみが認識できます。五根を表面に重点を置く場合、それは浮塵根を指し、勝義根は含まれません。もし五根の全ての機能的本質を指す場合、勝義根を含みます。また、特に勝義根に重点を置く場合もあり、具体的な状況によって異なります。後頭部にあるのが勝義根であり、内塵との接触を担い、その後如来蔵によって識が生じます。
六根が六塵に触れる時、如来蔵は六識を生じさせ、根・塵・識の三者が和合して触れることで、六識は内六塵を了別し、衆生は内六塵の内実を知り、分別による了知が完成します。衆生が了知するものは内塵たる内相分であり、外塵たる外相分ではないため、衆生が了知する六塵は虚妄です。内塵は幻影であり、外塵は内塵に比べれば真実のように見えますが、これも如来蔵によって幻化されたものであり、やはり虚妄不実です。真実の真とは、不生不滅の真心たる如来蔵であり、これ以外は全て仮のものであり、虚妄であり、幻化された実体のないものです。
衆生は永遠に外塵に触れることはできず、全て虚相・仮相の中で生存しており、病める目が空中の花を見るに過ぎません。内塵と外塵は存在するのかしないのか?衆生の目に病がある時には空中の花を見ることができ、衆生の心に病障がある時には一切の相を実在し真実であると見なします。衆生の心に病がない時には、空中に花を見ることはなく、ただ如来蔵性のみを見ます。例えば私たちの五陰には動転施為があり、これらの仮相を排除することはできず、存在はしますが、この存在は仮の存在であり、これらの法は今は理解できないかもしれませんが、証悟を経て様々な観行の智慧が現れた時、その時に初めて理解できるようになります。これは親証による現量境界であり、他人がどれほど解説しても理解することはできません。なぜならこれは理解の問題ではなく、実際の修行によって自ら証得しなければならないものであり、理解によるものは信頼できず、生死の問題を解決することもできないからです。
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