衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月07日    木曜日     第5開示 合計1317開示

比量が正しくとも現量の実証にあらず

禅定も智慧も十分でない修行者は比量と研究の方法を用い、定力の強い者は参究を好み、断固として諦めず、大智慧の者は完全に現量で証得します。特に一切種智を備えた仏世尊においては、一切の法が現量で知られ、比喩や比較、想像や推測を必要とせず、言葉は全て確定的な表現であり、迷いはありません。禅定を修めない者、観行の智慧を持たない者、参究できない者のみが比量推論の方法を用い、この方法で仏法が証得できると考えますが、実際には証得ではなく、推測に類似しています。

比量がどれほど正しくとも、推論がどれほど正しくとも、それは現量ではなく、実証ではありません。実証はその瞬間に体見でき、目で見るものではありませんが、意識による見もまた瞬間の直観であり、推論や比較を必要としません。これが現量の意味です。

意識が鋭い者なら誰でも論理的思考推論を行えますが、実証に代わることはできません。五蘊十八界の苦・空・無常・無我は、その瞬間に感知されなければならず、比較も推論もできません。比較や推論による反応は一歩遅れ、意識の強制的な刷り込みと牽制作用によってやむを得ずそうなるのです。一旦、意識の機能が弱まるか、意識が消失すると、牽制作用がなくなり、五蘊十八界が苦・空・無常・無我であることを知ることができません。これでは解脱の功徳受用が得られず、中有身は力を借りることができず、後世においても功徳受用を持つことはできません。

同様に大乗仏法においても、如来蔵の働きはその瞬間に観察できなければならず、比較も論理推論もできません。知ろうとすれば即座に知られ、意識を用いて考慮・分析することは現量ではありません。その瞬間に知られる法のみが実証であり、初めて効果があり、感応があり、利益を得、解脱の功徳受用を持つことができます。瞬間に知られる法においては、意根は必ず知っており、意識による助言を必要としません。意根が知らない場合にのみ、意識による論理推論や分析比較、推測を用いるのです。

意根の実証は直観的体験に類似しています。禅定がなければ直観的体験はなく、驚いた時でさえも一時的な禅定があります。七覚分は仏法を実証するための必由の道であり、その中の喜覚分・猗覚分・定覚分は、実際の修行の中で次第に現れ、全て禅定に関連し、次第禅定です。この過程がなければ実証を語るべきではなく、仏陀の説くことを信じ、仏語に誤りがないことを信じるべきです。一方、意識の分別思考は意根の直観的体験を導き、功徳も非常に大きいものです。修行過程においては、二つの覚知性(意識と意根)はどちらも欠かせず、どちらも重要です。

しかし、意識の機能が過度に強大になると、意根の思量性を覆い隠してしまい、解悟は容易でも実証は非常に困難になります。そのため、過去の禅宗の祖師たちは意識の過剰な活性化に反対し、禅定の中で死んだように座って観行思考を起こさないことにも反対しました。意識の作用を適度に保つことは非常に難しいのです。例えば、決まった仕事を二人で行う場合、甲が多く行えば乙の分担は少なくなるのと同じ原理です。意識が強大であれば、生きている間は意識に依存できますが、一旦、意識活動が弱まるか、意識が滅すると、意根は頼るものなく、その時は意根のみに依存することになります。皆さん、臨終や後世において、意根が強大になっていない状態を想像してみてください。意識を強大にする目的と結果は意根を強大にすることにあるべきであり、もし意根が強大にならなければ、将来どうなるのでしょうか。意根が弱ければ、私たちも弱くなります。意根が一旦非常に強大になれば、意識を用いなくても機能し、例えば六根が互いに用い、互いに通じ合うようになります。

——生如法師の開示
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