この世は本来、多くの過患が存在するものである。人には諸々の煩悩があるがゆえに、往々にして多くの悪行があり、多くの悪業を造り、その結果として世の中に多くの苦受や矛盾、環境の悪化が生じる。これらの過患を如実に見るには智慧と大智慧が必要であり、これらの過患を見て回避し改善できるには、さらに大智慧が必要である。自己の過ちを見るだけでなく、他者の過ちも見ることができ、自己を改めるだけでなく、他者や生存環境をも改めることができるのは、大菩薩でなければできないことである。
過ちを知ってこそ改める心が奮い起こされ、改めてこそ完全無欠になることができる。私は幼い頃から常に人の過ちを見てきた。すべての人に過ちがあるのを見てきた。見たくなくても見えてしまうのだ。人の過ちや世の過ちを見ながら、それを変える力もなく、それは非常に苦しく、無力なことであった。その時はいつも目を閉じ、人混みを避けて、人の過ちを見ずに済むようにしたいと思ったものだ。だから人の過ちを見ることができる者は、少なくとも他者を超越していなければならず、それでこそ人の過ちを見ることができるのだ。例えば学生の保護者や教師は、概して学生よりも見識があり、学生を督励する役割を担っている。学生に過ちがあれば、それを見て改めさせなければならない。同級生同士であっても、互いに監督し合い、互いの長所を取り入れて短所を補い、共に向上することができる。
これらの過ちある者とどう付き合うか、過ちある者をどう導くか、これらの不完全な事柄をどう処理するか、これには大いなる智慧が必要であり、同時にその人の人格と修養が表れる。人の過ちや問題が見えず、平凡に何でも丸く収める「和事佬」のような存在でいて、何の問題が解決できるだろうか。人の過ちを見た後、自己を修める時には、相に於いて相を離れるべきであり、これには大いなる智慧が必要である。
世俗諦の理においては、世間の過ちを見る必要がある。出世間の勝義諦においては、世間の過ちを見ないのである。世間の過ちを見ることは世俗諦の智慧であり、世間の過ちを見ないことは勝義諦の智慧である。この二者が完璧に融合してこそ、真の智慧となる。そしてこの二者を円融に使いこなす者こそ、諸仏菩薩なのである。
世俗の法は明瞭明白であり、善悪や是非は心の中で明らかである。なすべきことは迷いなく行い、決して曖昧にしない。同時に、これらすべては幻化であり、空であり、如来蔵が現した仮相に過ぎないと心の中で明らかにし、これらの相に執着しないのである。相に執着しないといえども、相々は歴然と存在するのである。
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