千言万語は不言の中に尽きるとは、いったいどういう意味でしょうか。これはどのような思想の境地なのでしょうか。意根と意識はそれぞれどのように自らの思想を表現しているのでしょうか。千言万語と不言の関係とは何なのでしょうか。
如舎:弟子の浅見では、これは意根の表現が意識の表現に先行しており、意識が言語文字で形容できない感覚を、意根が既に透徹して理解し表現できる状態を指します。一瞬の念いが千言に相当し、相手もそれを感じ取れます。ちょうど仏を憶念し礼拝する際や法施を行う時に、念いで衆生の受益を希求するのと同じであり、これも禅定による智慧修養の重要な点です。
評釈:意根が先に思想を抱くが、それを言語化できない場合、意識が代わりに表現することになります。意識は千言万語を用いて意根の思想を表現しますが、意根の思想を明確徹底的に表現できるか、意根の意にかなうかといえば、必ずしもそうとは限りません。ご覧の通り、意根の思想は心念によって一瞬で現れたり、感情によって瞬時に表現されたりします。しかし意識と意根の思想には隔たりがあるため、意識が千言万語を用いても意根の考えを完全に説明できず、話し終えた後も言い尽くせない感覚が残り、補足説明を加えたくなるのです。
このように、意根の思想は簡潔明快で瞬時に完成しますが、意識は必然的に冗長になり、意根の心念を巡ってぐるぐると回り続けます。したがって、くどくどと話すのが好きな人は意識を多用する者であり、智慧が不足している人です。一方、簡潔明快に核心を突いて話す人は意根を多用する者であり、智慧ある人です。彼らは思考が明晰で論理力に優れています。世の中で論理力が強い人は非常に少なく、大多数の人は散漫な心で雑談ばかりする、遠回りの名人です。たとえ地球を一周回っても中心点に戻れません。ですから大多数の人と議論する必要はなく、疲れ果てるまで付き合う価値はありません。
如華:意根の表現は言外に溢れながら表に出ず、意識の表現は言葉で表に出ます。
善智:意根がどのように表現するか:例えば恩恵を受けたため、相手の大恩の行為に感動し、身心に大きな衝動が走り、身体に暖流が走り、涙がこぼれ落ちそうになるなど、これらはすべて意根が六識の身根を通じての表現です。千言万語は不言に従属します。
只だ意会すべきで、言伝えるべからず。よく「言葉は無力だ」と言われるのは、意根の不言の心念を表現できないからです。ですから師は現量観行を実証せよと説かれ、意識で推測してはならないと仰います。なぜなら意根のこうした特性を正しく踏まえて修行してこそ、正しい結果が現れるからです。したがって師が相手に我見が断たれたかどうかを評される時は、その身心に脱胎換骨の変化があるかどうか(夢の中の情景分析も含む。これも意根が先に作意するものです)を見られ、一点の偽りも造れません。以上は個人の推測です。
評釈:意識が表現しようとする千言万語は、すべて意根の心中、意根の不言の心念の中にあります。しかし千言万語でも不言の内容の全てを概括できるとは限らず、また不言の心意や心境を表現できるとも限りません。不言の深さと広がり、そして情感などは、千言万語では到底及ばないか、あるいは全く触れることすらできない可能性があります。では意根と意識の智慧はどちらが優れているのでしょうか。不言は千言万語を含み、千言万語より深く広いものです。一方で千言万語は不言の一部であり、不言より浅く小さいのです。
なぜ一部の人は言葉を簡潔明瞭にまとめられず、必ず長々とくどくどと述べなければならないのでしょうか。第一に、彼らの意識が自身の意根の心思や考えを正確に感知・表現できず、概括・要約・抽出する智慧が欠如しているためです。第二に、彼らの意根にはそれほど明確な考えや心念がないためです。第三に、意識の智慧が不足しており、法の中心思想を掌握できず、法に対する精度を把握できないため、遠回りせざるを得ず、擦り寄ることをせざるを得ず、際限なく広げて智慧の不足を補わざるを得ないためです。
常に意識を用いる人が、意根を用いる人に敵うでしょうか。もちろん敵いません。特に競技場や戦場、そして突発事件においては、あなたの意識による思考がまだ始まらないうちに、事態は瞬時に発生し終わり、全てが既成事実となっています。その場で対策を考えあぐねているうちに、命はとっくに失われています。意識は所詮経験が少なく、経験が深刻に不足している上、身心の主となることができず、直接身心に意識の指令を完了させることもできず、必ず意根を経由しなければなりません。一方で意根は危急の状況に遭遇すると即座に主導権を握り、身心に瞬時に自身の指令を完了させます。ゆっくり考えて対策を練る必要がなく、経験が豊富なため反応が迅速で、適切な処理ができるのです。
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