衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年04月07日    火曜日     第1開示 合計4673開示

意根による境の認識における表現形式

如春:昨夜座禅を終え寝支度をしていたところ、間もなく雨が降り出しました。雨がガラスを打つ澄んだ音を聞きながら眠りにつき、まどろみかけた頃、その雨がまるで自分の頭蓋骨を打っているかのように感じられました。ほどなくして頭蓋骨の半分が打ち砕かれ、ぽっかりと穴の開いた状態に。半分だけの頭蓋骨が残りましたが、心では驚くこともなく、そのまま眠ってしまいました。お尋ねしますが、これは座禅を終えたばかりで定力がまだ残っていたためでしょうか、それとも幻覚だったのでしょうか? 

講評:これは座禅から降座する際、心が非常に静穏であり、意識が念を起こさず、特に就寝前も意識が動かなかったためです。意根が直接に雨音を感知し、その感知が微細であったため、わずかな音響も突出して感じられ、音が非常に大きく響いたのです。心に強く震動を覚え、その震動が甚だしくなると、誇張が生じました。頭の半分が打ち砕かれるというイメージでこの情景を表現したのです。意根は実に興味深いものです。意根が感知するものと意識が感知するものには差異があり、その差は時に甚だしいこともあります。ですから我々が普段目にする法と、実相を証得した時に見る同じ法とは全く異なり、その時になって初めて、かつて自らが抱いていた見解や見方が全て誤りであったと知り、悔しくて思わず腿を叩くほどです。 

なぜ観行を修めた後、同じく呼吸を見、身行を見、六塵の相を見るのに、見道以前と見道以後では、同じ一つの法に対する見識がこれほどまでに隔絶して感じられるのでしょうか? 同じく水を飲み、沐浴し、色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を知るのに、見道以前と見道の時点では、これほどまでに異なって感じられるのはなぜでしょうか? 見道以前は確固として、色は色、声は声、香は香、味は味、触は触、法は法、我は我と信じていましたが、見道後は一切が非となり、色は色にあらず、声は声にあらず、香は香にあらず、味は味にあらず、触は触にあらず、法は法にあらず、我は我にあらず。なぜこれほど大きな差が生じるのでしょうか?

衆生は愚痴であればあるほど自信過剰になります。何を自信にしているのでしょうか? 愚痴を自信にしているのです。見道以前は意識の妄想が飛び交い、様々な知見を長々と述べ立て、得意満面でした。見道後は、意識がようやく静まり、全てが逆転します。正確に言えば、意根がようやく静まったため、意識も静まらざるを得なくなるのです。誰が最も多く語り、誰が最も多くの知見を持ち、誰が最も頑固で、誰が最も盲目的に自信過剰か、その者が最も顚倒しているのです。

 如春:確かに当時は、その雨がまるでガラスを打ち砕くかのように、特に大きな音に感じられました。 おっしゃる意味は、頭蓋骨の半分がないという映像が現れたのは、意根による誇張表現だということでしょうか? 私は特に雨音の大きさについては述べませんでしたが、どのようにしてお分かりになったのでしょうか? なぜ打ち砕かれた頭蓋骨の半分から、当の本人さえ気づかなかった細部を了別できたのでしょうか? これも意根の機能によるものですか?

講評:これは意根が作り出した境界像に対する正しく如実な判断です。映像の中で頭の半分が打ち砕かれて示されているのですから、音が小さいはずがありません。これは言葉で伝えるのではなく、事実をもって語っているのです。だからこそ合理的な判断が下せるのです。意根は頭蓋骨の半分を打ち砕くことで、あの雨粒の音が非常に非常に大きかったことを表現しているのです。

如春:観行とは意識に妄念を起こさせず、意根に単独で、自ら一切の法を感知させ、それによって法界の実相を見ることに他なりません。すなわち見道です。

講評:意根が自ら感知するのであり、必ずしも単独で感知するとは限りません。多くの場合、六識と共に感知しています。意識は妄念を起こさなくとも、自らが了別した境界相を意根に伝達します。意根は意識の了別と五識の了別を借りて境界を感知、体験し、それによって如理なる判断を下し、智慧を生じさせるのです。この時、意識はただ了別するだけで、分析も理解も臆測もせず、自らの見解を用いて意根の独特な思量を妨げません。そうしてこそ得られる結論は真実で信頼に足るものであり、意識を用いると水増しが生じてしまうのです。


——生如法師の開示
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