衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年04月06日    月曜日     第1開示 合計4672開示

苦に対する観行 (vipaśyanā-caryā)

如春:朝4時55分に座禅に入る。深呼吸をし、いつも通り念仏しようと思っていたが、今日は頭の中で自動的に心経を唱え始め、1時間半ほどほとんど妄念がなく、一遍また一遍と心経がまるで自動再生のように流れていった。これは観音菩薩が私を加持してくださっているのではないだろうか?

夜の座禅では蚊に邪魔され、煩悩心と苦受が生じた。自問する:なぜ煩悩心と苦受が生じたのか?心の中で分析する:蚊は私の肉を刺し血を吸い、痒くて痛い、このような感覚はとても苦しく辛い。蚊が刺してくる時、思わず一発ぶん殴りたい気持ちになる。もし打ち当てれば悪業を造って苦因を種まきすることになるし、打ち損ねればまた刺されるのを恐れ、それもまた苦である。一匹の小さな蚊がこれほど多くの苦悩をもたらす。日頃の苦はもっと多く、衣食住行のすべてが苦である。例えば食事一つとっても、まず料理を作ること自体が大変で、冬は水が氷のように冷たく夏は火が熱く、さまざまな苦受があり、洗う、切る、炒める、あれこれと面倒が続く。さらに食べ物を噛んで消化するためにはさまざまなスイッチを起動しなければならず、長い間働いて多くのエネルギーを消耗する。美味しいものに出会えば食べてもまだ食べたくて、食べ過ぎて苦しくなり、まずいものを食べれば不味くて苦しく、空腹でも苦しい。とにかくどこもかしこも苦である。

では苦はどこから来て、どこへ行くのか?苦とは感受であり、五蘊の身に由来する。五蘊の身は苦を感受でき、また苦を集めることもできる。そして私たちは五蘊の身を我とみなしている。それらを総合すると、苦=感受=五蘊の身=我となる。逆に言えば、我がなければ受はなく、五蘊の身もなく、苦もない。苦は我から来り、無我へと去っていく。

講評:苦を知ってこそ集を断つことができ、滅を慕い、道を修めることができる。苦を知らなければ道を修めようとは思わず、道心も強くならない。慈悲心が増強されてくると、まず衆生の苦を思い、その次に自分の苦を思うようになる。心量が小さいうちは、蚊を打ち殺して自分が悪業を造り苦を受けることしか考えず、蚊が死ぬことで苦受があることまでは考えない。菩薩道を修めるなら、まず衆生を思い、その後に自分を考えるべきであり、いつも自分を中心にあれこれ思いを巡らせてはならない。なぜ大多数の人は物事に遭遇するとまず自分の利益を考え、あるいは自分の利益の得失しか考えられず、少しも相手のことを考えないのか?大多数の人は心量が小さくエネルギーの低い人であり、福が薄く、他人を顧みる余分な心の余裕も能力もないため、心の隅々まで、目にも脳にも自分のことしかないからである。このような人は、福が薄いため大乗では見道することが難しく、菩薩の資格が足りない。どうして真の菩薩になることができようか?


——生如法師の開示
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禅定、見道と気脈の関係(2025-04-22)

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