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日常法話

2026年04月11日    土曜日     第1開示 合計4677開示

正しい止観の修行法

深密解脱経弥勒菩薩問品原文:(仏説)弥勒よ。一切の菩薩は、かくの如き修多羅において、よく諦聴すべし。口には常に善く誦し、心には常に善く知り、智は常に善く観じ、慧は如実に覚るべし。弥勒よ。諸の菩薩らは、かの修多羅において善く思惟したのち、閑静な場所にて独坐し、観察すべし。かの心を観察し、内に常に随順す。かくの如く心を観じ、かくの如く心を絶え間なくせよ。かの菩薩は身の楽と心の楽を得る。弥勒よ。これを我が説く菩薩の奢摩他法の修行と名づく。

釈:仏は説かれた:弥勒よ、一切の菩薩はこれらの経典において、よくよく仔細にまず仏法を聴聞し、正しく経文を読誦し、それから心中に善く(正しく正向に)経義を知り、智慧の心をもって経義に随順し法理を観察し、智慧の心をもって如実に諸法を覚悟すべきである。これが最初の理を明らかにする段階である。仏は説かれた:弥勒よ、諸の菩薩らはこれらの経典を善く思惟した後、閑静な場所を求めて独り静坐し法義を観察すべし。心中に常に経義法理に随順し、法理に順って観察し、心中で経義を認可せよ。このように絶え間なく観察思惟すれば、色身に愉悦の感覚が現れ、心にも喜び楽しみの感受が生じる。弥勒よ、これが私の説く菩薩が奢摩他を修行する方法である。

経義に随順して観じれば、七覚支のうちの喜覚支・軽安覚支・定覚支を発起することができ、後の慧覚支も現れる機縁が生じる。例えば経中に五蘊皆空と説かれていれば、五蘊空の理に随順して五蘊の空を観察し、五蘊の空を思惟すべく、空理に逆らって五蘊の空を否定してはならない。この段階が極めて重要であり、法理を証見するための鍵となる前提条件であり、こうして心は転変し得る。これが第二段階の修行である。

長く仏法を学んでいるにもかかわらず、いまだに喜覚支・軽安覚支・定覚支が現れない者は、自ら法義を思惟する際、心に法義に逆らい、法義に随順せず、あるいは法義を否定する現象がないかどうか、心に常に法理に背く現象がないかどうかを点検すべきである。心が法理に逆らえば、行為も法理に逆らい、どうして修行に効果があろうか。例えば仏が不食肉の戒律を説かれた後、これを聞いてもこの法理に随順しようとせず、あれこれと自分が肉を食べる理由を探し、知らず知らずのうちにこの戒律に対抗し、結果として一生涯肉を食べる習慣を改められなければ、どうして修行に効果があろうか。大小乗の理についても同様であり、内心で随順しようとせず、常に自覚的であれ無自覚的であれ対抗し背けば、行為上も改めず、仏理に背き続けることになる。このような状態では、一生涯仏法を学んでも何の効果もない。仏法を学んだ後、七覚支が発起しないならば、それは無効な修行であり、自ら自らに対して責任を負い、常に自心を反観し、自心を点検し、自心を呵責すべきである。

仏法を学んだ後、もし仏法法理に随順しているならば、非常に多くの外道法を否定し、非常に多くの世俗法の習慣を否定するはずである。もし依然として外道法や世俗法に熱中し、あるいは外道知見や世俗知見を増長させているならば、その者は全く仏法法理に随順しておらず、仏教に順じず、善根が浅薄であると確信できる。長く仏法を学んでも進展がなく、明らかな効果がないならば、必ず原因があるのであり、ただ自らが思想的に怠惰で反省や点検をせず、世俗的習気が重く、仏法に対して何の希求や願いもなく、真に菩提心の願いを発起せず、自らの生死の問題に対して責任を負っていないだけである。仏法修学において楽受が生じなければ、修行の動力や興味もなく、平常は世間法を主とし、心が固く世間法に縛られ、仏法に随順していないのである。

ある者は修行に非常に意欲的であり、心中ひそかに誓う:私は必ずすべての人を超えて一番にならねばならない、私は必ずすべての人から注目され、仰慕され、崇拝されねばならない、私は必ずすべての人に私が本当に有能だと知らしめねばならない、私は必ず頭角を現さねばならない、私は…。この「我」は無限に多く、この無限の「我」をもって修行する者は、修めるのが速く、まもなくして魔に憑かれ、魔の加持を受け、後世には魔子魔孫となるか、あるいは福を修めて阿修羅となり、終日人と争い、どうしても一番を争い、闘争心に満ちるようになる。

原文:(仏説)かの菩薩は身心の楽を得たのち、身心の楽に依りて、説かれた法を観じ、先に思惟した如く一切の諸法を観察し、内心の三昧の境界像を観察す。諸法が思惟を離れていることを信じ得る。弥勒よ。諸の菩薩らはかくの如くかの三昧の鏡像を観じれば、かの義を知り得る。覚と観と思惟と忍悕と見意とが、知覚現前する。弥勒よ。これを我が説く菩薩の毗婆舎那の修行と名づく。弥勒よ。諸の菩薩らはかくの如く善く毗婆舎那を知るべし。

釈:菩薩が止(奢摩他)を修め観(毗婆舎那)を修めて身楽心楽を得た後、身心が楽を得る法に依止随順し、引き続き深くこの法を観察し、法の指す方向に順って一切の諸法(自性如来蔵)を思惟するとき、ここに三昧を証得する。さらに内心に現れた三昧の境界像を観察し、諸法(自性如来蔵)が一切の思惟を離れ、思惟の及ばざるものであり、不生不滅で独立して存在することを信受し得る。弥勒よ、諸の菩薩らがこのように自心に現れた三昧の鏡像を観察すれば、諸法の義を知り得、心中に諸法が不生不滅であることを忍可し、無生法忍の智慧が現前する。弥勒よ、これが私の説く菩薩が観慧を修行する方法である。弥勒よ、諸の菩薩らはこのように善く毗婆舎那(観慧)を了知すべきである。

この文章の意味は、まず止(奢摩他)を得て楽を得、法義に随順し、さらに法義に順って観じることによって、はじめて観慧が生じ、三昧が生じると説いている。もし止(奢摩他)がなければ観(毗婆舎那)もできず、心識が散乱して集中できず、観となることができない。ゆえに両者は連なり合っている。止は理に順った止であり、観は止の上に立つ観である。観を離れれば止はなく、止を離れれば観はない。止観は双運し、定慧は等しく保たれる。これが修行の主要な義であり、一切を実証する根本方法である。これ以外では三昧の境を得られない。

——生如法師の開示
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