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日常法話

2026年06月07日    日曜日     第1開示 合計4735開示

『金剛経講解』無断無滅分第二十七

原文:須菩提。汝若作是念。如来は具足相を以てするが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得るにあらず。須菩提。かくの如き念を作すことなかれ。如来は具足相を以てするが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得るにあらず。

解釈:須菩提よ、もしあなたが心の中に、如来はあらゆる相好を具足したことによって阿耨多羅三藐三菩提を得たのではない、という念を起こすならば、速やかにその念を消し去りなさい。須菩提よ、如来は無量の相好荘厳を具足したことによって阿耨多羅三藐三菩提を得たのではない、という念を起こしてはなりません。須菩提よ、如来はまさに無量の相好荘厳を具足したことによって、阿耨多羅三藐三菩提を得たのです。

衆生は智慧が浅薄であるがゆえに、一切の法を円融に理解することができず、その知見には偏狭や欠落が生じます。それゆえ、衆生は世尊が四相を破り、色声香味触法の相を破り、さらに如来の三十二相を破るのを見て、ある者は、如来が阿耨多羅三藐三菩提を成就するにあたり、あらゆる相を具足しなくても菩提を得、仏道を成就できるのではないか、それらの相は有っても無くても構わず、重要ではなく、相好を具足しなくても成仏できる、あるいは、すべての功徳を円満しなくても成仏できる、あるいは、成仏とは相において成就するものではなく、相は重要ではなく、有っても無くても構わない、成仏には一切の相は不要であり、五蘊の相も三十二相も不要であり、仏には五蘊の身はなく、ただ心のみである、と考える者もいます。このような思想や見解はすべて仏を誹謗するものであり、断滅空の思想に類似し、自他を害し、修行は成就しません。如来はこれらの邪見に対して、必ず是正を与えなければなりません。そうすることで、衆生の知見を偏りなく正しく保つことができるのです。

なぜ、如来がすべての相好を具足しなくても阿耨多羅三藐三菩提を成就できると考えることが、断滅空の思想となるのでしょうか。そのような思想観念があれば、実相心である如来蔵の存在とその働きを軽視し、あるいは否定することになり、如来蔵の機能作用が実有であることを否定することになり、すなわち断滅論となるからです。すべての菩薩が因地で菩薩道を修行する際に修行した、一つ一つの善業は、すべて種子として如来蔵の中に存在し、因縁が具足した時に、大小様々な善業の果報を順次得ることになり、成仏の果報に至るまで尽きることがなく、しかも果報はますます殊勝になります。これらの果報には、菩薩の色身五蘊の相の荘厳と相好、菩薩が生存する環境や居住する仏国土、菩薩の座下のすべての弟子や親族、菩薩のすべての三昧や無量の神通が含まれます。最も重要なのは、菩薩の無辺の智慧と徳能、そして菩薩の如来蔵における業種の清浄と転変が含まれることです。

では、菩薩が成仏する時、業種は完全に転変して清浄無余となり、無明は断ち尽くされて余すところがなくなります。そのため、八識は初めて四智に転換され、四智が円明となった時に、一切種智が現前します。そして、仏の四智とは、すなわち仏の八識です。仏には八識があるため、五蘊が存在します。さもなければ、八識には依拠する場所がなくなります。そして、仏の五蘊が三十二相八十種好を具足するのは、仏が三大阿僧祇劫にわたって善法を修行した結果、その善業の種子がすべて如来蔵の中に存在し、縁が熟して成仏する時に種子が現前し、五蘊の相貌が極めて荘厳で相好を具え、三十二相八十種好を円満に具足し、比類なく、殊勝極まりないものとして感得されるからです。

もし、仏が成仏する時に、具足した相好荘厳によって阿耨多羅三藐三菩提を成就したのではない、と言うならば、そこには大きな過失があります。第一に、衆生に、仏は無量劫にわたって修行した善業の種子を具足していない、と誤解させることになります。しかし実際には、仏は無量劫の修行の過程において、すべての善業を円満に修得し、その種子はすべて仏の如来蔵の中に収められており、成仏する時には最も殊勝な相好荘厳を感得するのです。第二に、衆生に、成仏しても相好荘厳を感得しないのは、おそらく仏の如来蔵が善業の種子を収めていないからだ、と誤解させることになります。しかし実際には、如来蔵が存在する限り、法爾自然に善業の種子を収め、一絲の漏れもありません。

第三に、衆生に、仏も衆生も如来蔵を持たず、如来蔵は方便の説き方に過ぎず、そのため仏の修行過程におけるすべての善業の種子を収めていないので、仏が成仏する時に、具足した相好荘厳がないのだ、と誤解させることになります。以上の過失に基づき、我々はこう言うべきです。仏は相好を具足したがゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を成就したのだと。

もし、仏が成仏する時に、善業の種子の果報を感得せず、善業の種子もない、と言うならば、それはすなわち、仏には全く如来蔵がないと言うに等しいものです。これは最も根本的で、最も重大な邪説邪見であり、根本的な断滅論の思想であり、人を害することが極めて大きいため、速やかにこのような邪見を滅するべきです。如来蔵が真実に存在し、真実の機能作用を有し、仏や菩薩が無量劫にわたって修行した善業の種子を収めることができ、将来成仏する時には、これらの善業の種子がすべて現前し、仏は相好荘厳という殊勝な果報を得て、阿耨多羅三藐三菩提を成就するのだと、確信すべきです。もし如来蔵がなければ、善業の種子は収められず、成仏する時にも善業の種子は現前せず、仏は相好を具足することができず、それではまだ仏ではなく、阿耨多羅三藐三菩提を得ていないことになります。

ここに至って、皆さんは理解すべきです。もし、仏が仏道を成就する時に、三十二相を具足したがゆえに阿耨多羅三藐三菩提を得たのではない、と言うならば、それは如来蔵の実有を否定する断滅論であり、無量の大きな過失があることになります。ですから、世尊は須菩提を勧める形で、間接的にすべての衆生を勧め、断滅論の思想を持たず、仏が阿耨多羅三藐三菩提を得るのは、具足相によってではない、と考えてはならないとされたのです。こう言うべきです。仏は具足相によって、阿耨多羅三藐三菩提を得たのである、と。そうすることで初めて、仏の説かれたところに合致し、仏法の精髄に適合し、大乗の実相の法に背かないことになるのです。

原文:須菩提。汝若作是念。阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は、諸法は断滅なりと説く。かくの如き念を作すことなかれ。何以故。阿耨多羅三藐三菩提心を発する者は、法において断滅相を説かざるが故なり。

解釈:須菩提よ、もしあなたが心の中で、すでに阿耨多羅三藐三菩提心を発した者は、一切の法は断滅空であり、本来何もなく、成仏する時にも一切の法はなく、一切の法相を具足しない、と説く、という考えを持つならば、速やかにそのような考えを滅し、そのような思想観念を持ってはなりません。なぜ、そのような思想観念を持つべきではないのでしょうか。なぜなら、阿耨多羅三藐三菩提心を発した者は、断滅しない実相心があることを信受して、初めて成仏の心を発起することができるのであり、彼は一切の法が断滅であるなどとは説かないからです。

真に成仏を願う心を発した者は、この時点で信位の菩薩の条件が満たされており、すべての衆生には生まれず滅しない真実の心である如来蔵があることを、すでに確信して疑いません。彼は、十方の諸仏には真実の心である如来蔵があり、この如来蔵に依って修行して初めて阿耨多羅三藐三菩提を成就できることを信じます。彼は、自分自身にも真実の心である如来蔵が存在し、将来如来蔵を悟ることができ、諸仏と同じように成仏できること、十方世界の衆生もまた、生まれず滅しない金剛心である如来蔵を持つがゆえに、皆成仏できることを信じます。彼がこのような信心を起こすことで、十信位が満たされ、十住位に入って六度の菩薩行の修行を始めます。もし、自身に如来蔵があること、如来蔵が真実に存在することを信じなければ、仏、法、僧に対する信心はまだ満たされておらず、十信位の修行はまだ具足しておらず、真に成仏の道心を発起することはできません。

十信位が満たされていない人は、如来蔵が真実に存在することをまだ信じることができず、往々にして如来蔵は単なる仮の名詞、概念に過ぎないと考えます。彼らは、如来蔵の空は如来蔵が存在しないことと等しく、如来蔵という概念は諸仏が方便として仮に説いたものだと考えます。彼らは仏の説かれた意味を正しく理解できないため、仏の説かれた究竟了義の法をすべて、仏の方便説、方便法であると誤解します。彼らは、仏が衆生を遊ばせているだけだ、とは公然とは言わないものの、実質的にはその意味です。この考えは仏を誹謗し、法を誹謗することであり、仏のすべての了義究竟の説法を、仏の不了義、不究竟の法として扱い、仏の真実の意味を著しく歪曲するものです。衆生が仏や法を誹謗する悪業が広く存在するのは、決して不思議なことではなく、すべては衆生が歴劫の修行時間が短すぎ、福徳が不足していることに起因します。

如来蔵の真実の存在、すなわち真実に有ることを否定するならば、それは断滅空の言論であり、危害は極めて大きいものです。なぜなら、如来蔵がなければ、一切の法は生じる基盤がなく、すべて断滅し、一了百了となるからです。断滅論を唱える者は、往々にして、一切の法は縁起性空であり、すべて因縁によって生じたものであり、すべて空であり、一つの法として真実のものはない、と言います。では、すべてが空であり、真実の如来蔵の法が存在しないのであれば、一切の法は何から有るのでしょうか。空であり、何一つない法が、別の空であり何一つない法を生み出す、などということはありえません。そのような道理はありません。例えば、亀の毛のような空無の法は、兎の角のような空無の法を生み出すことはできません。どちらも実体がないからです。実体があり、自性がある法だけが、実体がなく自性がない法を生み出すことができます。実体がなく自性がない法は、他の法を生み出すことはできません。これは法爾自然の道理であり、説明の余地はありません。

もし、一切の法は縁起性空であり、如来蔵という実体の法が存在しない、と言うならば、衆生の五陰の世間は滅し去り、再び生じることはなく、後世の出生もなくなり、ましてや修行して成仏することなどできなくなります。仮に、後世の五陰の出生があったとしても、如来蔵が衆生の業種を格納する場所がないため、衆生が修行した善業は無駄になり、種子を集め蓄えることができません。善業の種子を集め蓄えることができなければ、修行は無意味であり、後世の善業の果報を生じず、ましてや成仏する時により円満な善業の果報を感得することはできず、仏の三十二相や八十種好、仏の様々な殊勝な功徳や利用、仏の十方の諸仏国土、仏の荘厳な報身、仏の無量の応化身、仏の無量の神通力、また転識成智の説も、ましてや仏の一切種智も存在しなくなるでしょう。

なぜ、実体としての如来蔵が存在しなければ、転識成智ができないのでしょうか。なぜなら、七識が一世の修行によって、心行が染汚から清浄へと転変しても、清浄な業種を収めることができなければ、来世も依然として染汚のままであり、修行が無駄になり、真実の受用がなく、七識の染汚性は転変しないからです。そうであれば、仏地に至っても、依然として染汚の七識のままであり、七識の業種は転変せず、心行は清浄にならず、成仏することはできません。したがって、実体としての如来蔵が真実に存在し、それに対応する功徳の作用を発揮しなければ、衆生は阿耨多羅三藐三菩提を成就することはできません。ゆえに、真に阿耨多羅三藐三菩提を発する者は、法において断滅相を説かず、如来蔵は単なる仮定の虚相の法であるとは説かず、如来蔵の心体の真実の存在がないとは説かないのです。

——生如法師の開示
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