心所法の中で、五遍行心所法を除き、その他の心所法は常に現れるものではなく、個別の時にのみ現れて運行する。五別境心所法は個別の時に現れるものであり、智慧の高い人ほど現行する時が多い。善悪の心所法および不善不悪の心所法も、個別の時に現れるものであって、常に現行するのではない。善い人ほど善心所法が現行する時が多く、悪い人ほど悪心所法が現行する時が多い。仏地に至ると、善心所法は常に現行するようになるであろう。たとえば定の心所法では、仏の心は常にじょうの中にあって、じソから出ることがない。たとえば慧の心所法では、仏の心は常に大智慧を持ち、智慧のない時がない。たとえば勝解の心所法では、仏の心は常に一切法を勝解することができる。たとえば善心所法の中の無貪・無瞋・無癡では、仏の心は永遠に常に無貪・無瞋・無癡である。たとえば不放逸・軽安・行捨・不害の心所法では、仏の心は常にそのようである。
人にはそれぞれ性格・気性・資質があり、各人の心所法はそれぞれ異なる。衆生の心がどれほど複雑であるか、世界はそれだけ複雑である。だからこそ、世界は衆生の心によって変幻されて現れたものだと言われるのである。もし衆生の心がみな仏の心のようであれば、世界はずっと単純で殊勝なものとなり、雲淡風軽であり、さらには雲淡風軽さすらなく、静まり返り、寂寥として、その美しさを正確に形容できる言葉は存在しないであろう。
世界は最後にはみなそのようなものとなり、衆生は修行の果てにはみな智慧にして単純となり、少しも複雑ではなくなる。性格や個性はことごとく泯滅し、気性や資質はことごとく消し去られ、心所法はみな善であって悪はなく、わずかに二十一だけとなり、多くも少なくもない。しかし心をこの程度まで修めるには、三つの無量劫を経なければならず、心を修めることがいかに難しく、心を変えることがいかに困難であるかがわかる。心が変わらなければ、煎熬を受けねばならず、自らを煎熬し、他をも煎熬し、互いに煎熬し合う。衆生が同根であることを知らず、ただ互いに煎り、その後で自らを熬らせるしかないのである。
修行の過程とは、心所法を転倒させ変えていく過程であり、最終的に八つの識がすべて二十一の心所法を円満に具足するようにし、そうなって初めて大小乗の無学 (aśaikṣa) となるのである。初地以上の菩薩は、根本煩悩・大随煩悩・中随煩悩がすべて断除されているため、六識・七識は転識成智し、無生法忍の智慧を獲得し、心所法はすべて二十一心所法と相応している。ただし五別境心所法はまだ究竟ではなく不完全で、なお強化を待つところであり、善十一心所法にも強化と増進が必要であり、小随煩悩はさらに滅除する必要がある。地上の菩薩は大乗法における癡の煩悩が断じ尽くされておらず、無癡の善心所法はまだ具足しておらず、ある菩薩は意根に慢の心所法がなお断じ尽くされていないものがあり、二十一心所法はなお絶えず完善し強化する必要がある。仏地の八つの識の二十一心所法のみが円満にして究竟であり、もはや増進する必要がないのである。
初地の菩薩から八地の菩薩まではなお煩悩習気の遮障があるため、心所法はまだ純浄とは言えず、純善ではない。八地の菩薩に修まると小随煩悩は滅し尽くされ、煩悩習気は断除され、染汚の種子もまた一部が消除され、二十一心所法はいっそう完善され強大となる。それゆえ、修行は煩悩と習気の断除と大きな関わりがあり、修行の目的とは煩悩と煩悩習気およびすべての無明を断除することにあり、それによって解脱を獲得するのである。無明を断じ尽くしてこそ仏道が成り、究竟の解脱となる。
五別境心所法の機能は、煩悩習気の絶え間ない消除に伴い、その機能はますます強大になっていく。すべての神通・道力は五別境心所法と関わりがあり、いずれも五別境心所法によって成就されるものであり、もちろん五遍行心所法の輔助を離れることもない。修行の絶え間ない増進に伴い、識心は必然的に変化が生じ、識心の変化とは心所法の転変であり、心所法の変化こそ修行の結果である。五遍行心所法もまた絶えず改善・増強され、受の心所法はますます捨受 (upekṣā-vedanā) に近づき、想の心所法は了別・分別がより正確無誤に、より徹底したものとなり、思の心所法の思択力はより大きく、より速く、より正確に、より善く、より無我となる。また、受・想・行の心所法が現れることがますます少なくなり、心行の造作がますます少なくなることもありうる。
凡夫と凡夫の心所法もまた同じとは限らない。学仏前と学仏後の心所法の差が大きいほど、よく修まっているのである。もし十年、二十年学仏していても、心地・心行・心所が相変わらず昔のままであるなら、この人は何十年もの間、何をしていたのであろうか。もし長年学んでも、心行・心所に何の変化もなく、煩悩がある程度まで調伏されておらず、初果の人の心所法・心行との差がなお大きいままであれば、どうして初果向へ趣向し、さらに初果を証入することができようか。修行によって七覚分が発起さえすれば、心所法は必ず変化する。もし変化しなければ、七覚分は具足しておらず、七覚分が具足していなければ、いかなる場合でも証果することはできない。七覚分の縁にも触れない人がどれほど多くいることか、それなのに大きな大きな聖果を得たと言って家に帰り享受していくとは、これこそ末法の世の乱象である。
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