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日常法話

2026年07月06日    月曜日     第1開示 合計4764開示

八つの識に相応する心所法

心所法とは識心が具えている法であり、識心が運行する過程における心行の軌跡であって、八つの識の運行を補助するものである。八識のすべての心所法は、世親菩薩によってまとめ上げられたものが最多で五十一個であるが、まだ归纳されていないより微細な心所法もあり、例えば驚き、恐れ、喜び、幸福といった情緒面の心所法などである。これらの心所法は善にも悪にも属せず、本質的には修証に影響しない。各識にはそれぞれの心所法があり、まったく同じではなく、衆生ごとの修行の段階によっても異なる心所法があり、心に従って定まり、心に従って変化する。したがって、各識の心所法が果たして固定してどれほどあるのかを言うことは難しく、また各衆生の心所法が果たしてどれであるのかを言うことも難しく、いずれも具体的な状況に応じて分析し対処すべきであり、一概には言えない。

全体として言えば、八つの識には以下のような心所法がある:

五遍行:触、作意、受、想、思;

五別境:欲、勝解 (adhimokṣa)、念、定、慧;

善十一:信、慚、愧、無貪、無瞋、無痴、精進、軽安、不放逸、行捨、不害;

根本煩悩六:貪、瞋、痴、慢、疑、悪見;

大随煩悩八:不信、懈怠、放逸、昏沈、掉挙、失念、不正知、散乱;不定心所:悔、眠、尋、伺;

中随煩悩二:無慚、無愧;

小随煩悩十:忿、恨、悩、覆、誑、諂、憍、害、嫉、慳。

このうち、善十一の心所法は煩悩心所法と対立しており、これがあれば彼はなく、彼があればこれがない。識心に善心所法があれば、それに対応する煩悩心所法はなく、煩悩心所法があれば、それに対応する善十一の心所法はない。一つの識心が善悪の心所法を同時に持つことは不可能であり、善であるか、悪であるか、あるいは不善不悪であるかのいずれかであって、同時に現れることはできない。

例えば、一つの境界、一つの法に直面するとき、識心に信の心所法があれば、不信の心所法があってはならず、半信半疑であってもならない。逆もまた同様で、両方を兼ね備えることはできない。慚愧の心所法があれば、無慚無愧の心所法があってはならない。無貪の心所法があれば、貪の心所法があってはならない。無瞋の心所法があれば、瞋の心所法があってはならない。無痴の心所法があれば、痴の心所法があってはならない。精進の心所法があれば、懈怠の心所法があってはならない。軽安の心所法があれば、昏沈の心所法があってはならない。不放逸の心所法があれば、放逸の心所法があってはならない。行捨の心所法があれば、忿・恨・悩の心所法があってはならない。不害の心所法があれば、害の心所法があってはならない。対立する二者は一つしかあり得ず、両方を兼ね備えることはできない。

では、第八識に二十六の煩悩心所法があるのであろうか。断じてない。第八識には無明がなく、一切の煩悩がなく、しかも善心所法があり、不善不悪の心所法もある。もし善心所法がなければ、悪心所法があることになる。第八識の善心所法は、信、無貪、無瞋、無痴、精進、軽安、不放逸、行捨、不害である。慚愧の心所法はない。第八識は自分や他人に申し訳ない心行を造作したことが決してないからであり、したがって慚愧や不慚愧を必要としない。無貪・無瞋・無痴の三つの心所法は理解しやすい。第八識には無明がないので、当然、貪瞋痴の煩悩はなく、心は一切の煩悩から解脱している。

第八識には不放逸の心所法がある。神様は決して自分を放縦して安楽を追求することがない。一切の法に対して心がないので、疲れを感じたことが決してなく、境界を貪愛せず、境界を好まず、境界を厭離しない。したがって、自分を放縦することもなく、安逸を追求することもなく、不放逸の心所法があるのである。

第八識には行捨の心所法がある。行捨とは心行が捨の状態にあることであり、偏り倚ることなく、一切の法に対して平等であり、過去を追憶せず、未来に攀縁せず、心緒は平和で、緩まず急がず、中道にあり、心性は中性である。第八識はまさにこのような心である。

第八識には不害の心所法がある。一切の人・事・物理に対して違害の心や違逆の心がなく、人・事・物理に如法でないところがあれば、第八識は一切追究することなく、絶対に何も意に介さない。したがって違害の心行を起こさず、善悪の一切の現象を存分に現出させる。第八識は決して心で分別し対待することがなく、決して心念を起こさず、善も悪も第八識の心に影響を与えることはできない。

——生如法師の開示
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第八識の心所法

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