意根が何の法に対して作意するかは何によって決まるのか、この問題について瑜伽師地論で言及されている。それは意根の念や欲、習気、習慣、考え、興味、好み、打算、願望、要求などによって、意根本身の識種子の作意を引き起こすのである。六識の作意はすべて意根によって引き起こされ決定され、意根がどの法において作用し造作しようとするかによって、如来蔵の中の六識の種子には一つの出生の方向が生じ、その法処に生じようとする意図が生まれる。これを作意といい、その後、識種子は必ずその法において出生する。
意根が作意した後は、どの識であっても対応する法と触れ合わなければならない。なぜなら、識種子がどの法に出生するかによって、その法に触れ、触れた後にはそれを受け入れ領納するからである。例えば、手が球に触れた後、その球を受け入れ、領納し、それから初めて感覚、すなわち受が生じ、その後知が生じる。例えば、眼根が色塵に触れる場合、まず色塵を受け入れた後、色塵を知り、さらにその色塵を執取し、考え、打算、計画、籌謀などを生じ、色塵を執取した後に感受が生じる。その受は想の後に生じ、感受を得た後さらに思量を続け、次に微細に了別して決定を下し主宰し、どのように処理しようかと欲する。
処理する前に、意根はこの法を執取し終えなければならない。執取する前には明確に了別しなければならず、この法に対してまず受がなければならない。受した後には一つの選択が生じる。この選択は思心所の作用であり、この選択は必ずしも最終的な選択ではなく、未熟で一時的な選択であるかもしれない。その後さらに細かく了別し、確信が持ててすべて了別し終えたと感じた時、最終的な選択を行う。そうすれば、七識のこの法における運作は終了する。
この法における運作が完全に終了する前に、意根の思心所は相続して絶え間なく運作し、この法の了別がすべて終了するまで続く。すべての思心所や五遍行心所も終了し、次の法の運行に入る。五遍行心所法は新しい内容を引き続き運行する。もしこの法が終了していなければ、触、作意、受、想、思は依然として相続して絶え間なく運行し、行ったり来たりのフィードバックを繰り返し、絶えず修正する。例えば、私たちが何かものを見る時、見始めたばかりの時はまずそれを受け入れ、受け入れた後にはっきり見たいと思い、了別し始める。最初はまだはっきり見えないかもしれないが、絶えず触れ、絶えず受け、絶えず了知し、了知した後に苦楽の三種の受が生じ、そしてその相を執取し、選択を行い、六識は業行を造作する。
1
+1