衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年07月26日    日曜日     第1開示 合計4787開示

業行はどのように出現するのか

五遍行心所法が働く過程は、まさに業行を造作する過程です。善心所法がそこに加われば、造作されるのは善業であり、悪心所法が加われば、造作されるのは悪業です。作意と触の心所法そのものは善でも悪でもありませんが、善心と悪心が加われば、その作意と触は善意のもの、悪意のものとなります。受・想・思の心所法そのものも善でも悪でもありませんが、善悪の心所法が加われば、その受・想・思の心所法には善悪の性が含まれることになります。五遍行心所法の運行に慧心所法が参与すれば、業行は智慧の性質を持ち、逆であれば、愚痴の性質の業行となります。勝解の心所法が参与すれば、この人は聡明で、人の心をよく理解し、理解力が強くなります。定の心所法が生じるときは、受も想も軽微となり、五遍行心所法の運行はすべて緩やかで軽微となり、作意と触はいずれも受動的に生じ、受・想・思の心所は縁に随って現起して働き、任運として為されます。

意根は一切法の働きの過程において推進の役割を果たしており、業行の主宰者です。これは日頃の身口意行の中から観察することができます。たとえば手を挙げ、次に筆を取り、さらに手を紙の上に置くという場合です。この過程を細心に観察すれば、一種の心の力が推進しているのをはっきり感じ取ることができます。推進が明らかなときもあれば、明らかでないときもあり、非常に無造作で、推進していないように見えるときもありますが、実は慣性によって為されているのです。しかし、意根の働きがいかに無造作で不用心であっても、意識に智慧がないときには観察することは非常に難しいのです。

また、たとえば私たちが自転車に非常に熟練して乗っているときは、用心して乗っていないように見え、意識は自転車の乗り方を思惟したり考えたりしませんが、意根は刹那刹那において指揮と運作を行っており、用心しているのです。ただ意識がそれを知らないだけです。自転車に熟練しているときは、転ぼうと思っても容易には転びません。自転車に乗れないときは、転びたくなくても転んでしまいます。熟練しているときは意識が思惟と制御を行う必要がなく、意根がすでに習得していて、自在に指揮と制御ができるからです。熟練していないときは、意根がまだ学んでいないので、意識は繰り返し思惟して意根を薫染し続け、意根が完全に習得して自由に制御できるようになれば、意識はもう何の心思も必要としなくなります。

ある人は、何かをするときは無意識だったと言いますが、意識がどんなに無意識であっても、意根は有意識であり、意根が推進して何かを為すからこそ、その事が成就するのです。ただ自分がそれを知らないだけです。慣れた運作の状況下における無意識や下意識の動作は、いずれも意根が運作し指揮し操作しているのであって、意識ではありません。意識は単純に意根に配合しているだけで、何の思想も意見も見解も持っていません。さらに言えば、意識が無意識であることは意根が無意識であることを意味しません。意根が無意識のとき、心こそ真に無為なのです。

——生如法師の開示
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推敲中に蘊含される心所法

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意根五遍行心所法の推動作用

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