眼識が色を見るとき、見るのは顕色であり、青黄赤白、光明と闇、雲煙霧靄及び空です。光明は一種の物質であり、四大から構成され、刹那に生滅変異する、虚妄で実のないものです。
眼識自体は思心所を具えており、色塵を領納した後、色塵を了知し、それから思心所を生起させて造作を決定します。避けるのか、それとももう少し見ているのかです。眼識は意根と意識と同時に密接に連携・協力しており、意根の作意と思心所法がなければ、眼識と意識の出生と了別はなく、眼識の五遍行心所法の運行もなく、意識の五遍行心所法の出現もありません。眼識が色を見る場合、第七識は色を見ることはできません。意識が分析・推理・判断する場合、第七識は推理・分析することができません。識は分別・了別・識別の性質があって初めて識と呼ばれるのであり、さもなければ識とは呼ばれません。七つの識はすべて了別・分別・識別の性質を具えています。
<h2 style="text-indent: 2em;">前五識には思惟作用があるのか?</h2>前五識にも五遍行心所法があります。作意・触・受・想・思です。ただし、六七識の五遍行心所法より簡単で大まかです。六七識が思うのは法塵であり、その思は非常に細やかで深いものにもなりえます。前五識が思うのは五塵であり、その思は非常に大まかで簡単です。五塵と法塵を分け、混同することがないようにできさえすれば、五識の思と六七識の思の違いを弁別することができます。五識の思は、意識のあのような思惟作用ではなく、両者には区別があり、しかもその区別はかなり大きいのです。五塵と法塵を分けることは非常に容易ではないので、五識の識別と意識の識別の違いを区別できるようになることも、非常に困難なのです。意根と意識の機能・作用を区別することは、一般の人にも同様にできません。
皆さんが普段口にする思惟は、一般には六七識が法塵に対して行う思惟を指し、とりわけ独頭意識が独影境に対して行う思惟です。五識もまたその中に参与せずにはいられません。一方、五識の五遍行心所法の思は、主に判断・抉択の作用を果たします。五識が対応する五塵を了別した後、五塵に対して取相し、簡単に大まかに判断した後、さらに了別を続けるのか、停止して避けるのかを抉択します。意識は同時にその中に参与して了別します。五識の了別が大まかだと言われるのは、五塵が粗いものであり、細かい分別を必要としないからです。それゆえ了別は迅速で、五識がそれほど心の働きを用いる必要はなく、まるで頭を使っていないかのようです。一方、五塵と共にある法塵は比較的微細であり、意識の細やかな了別を必要とするので、意識の了別と思惟分析は比較的遅く、比較的心の働きを費やします。
五塵が重大で、その影響も大きい場合には、意根は五識の判断・抉択を主として抉択を行い、意識の分析判断を処理する余裕がないため、意識の了別と思惟を無視してしまいます。通常、五識の了別は比較的直観的で迅速であり、意識の了別は微細で五識よりやや遅いため、重大な事柄については意根は五識の反応を主とし、意識の反応にかまっていられません。それゆえ、ある種の突発的な出来事では、意識の分析思惟を用いる余裕がないうちに、意根が指揮して事をやり終えてしまい、意識が後になって初めて知ることになるのです。総括して言えば、思惟とは六七識の思惟を指します。前五識の思は思惟より簡単で大まかかつ直接的であり、深入りしておらず、深入りする必要もありません。五塵法は浅く粗く直観的なものだからです。
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