意根がすでに飲食欲を断っているなら、意識が欲界の美食に対していくら作意をかけ何度も見たところで、意根は貪欲を生起することもなく、美食を貪り食べたいとも思わず、ただ縁に随うだけである。意根がすでに男女の欲を断っているなら、意識が異性を何度も見たとしても、その後の心行は生じない。意根が攀縁せず貪欲しないので、意識は余計な心思や欲求を持つことができないからである。意根がすでに貪欲を断っているなら、衣食住に対して貪り求めることがなく、意識が豪華で贅沢な生活環境に置かれたとしても貪を生じず、その衣食住は依然として以前の習性に沿ったものとなる。これは意根の習性であり、衣食住の身口意行は意根が作主するので、必ず意根の習性に合致するのである。
仏になりたいというのは勝欲であり、明心見性したいというのは勝欲であり、我見を断って解脱果を証したいというのも勝欲である。もし単に意識だけがこの勝欲を持ち、意根が持っていないなら、意根は精進修行を作主することなく、自ら進んで三無漏学を修行せず、自ら進んで持戒せず、自ら進んで定を修めず、自ら進んで経を読み思惟することもなく、まして心を起こして観行 (vipaśyanā-caryā) や法義の参究をすることもなく、同様に朝な夕な、念念に修行の上に在ることもない。意根に勝欲があってこそ、自ら進んで六識に修行を促させ、意識を念念に学仏修行の上に在らせ、意識にあらゆる干渉と障害を排除する方法を考えさせ、精進修行させることができるのである。
学仏して以後、意識は肉食への貪欲を降伏し、肉を食べることは衆生と悪縁を結ぶことであり悪果があると知っているが、意根は肉食への貪欲を降伏していない。肉食に出会ったとき、意識は食べてはならないと知っているが、意根は少し食べたいと思い、意識は意根を勧導して、肉を食べてはならない、精進料理(菜食)を食べるべきだと説くと、意根はしばらく堪える。しかししばらくして意識が勧導しないと、うっかりした隙に、意根は一口食べて馋を解こうと決め、そこで一口肉を食べてしまう。意識が意根に随順し警戒を緩めると、意根はさらにもう一口食べようと決める。意識が意根を譴責しなければ、意根は自分を放縦し、絶えず食べ続け、ついには意識は意根を制御できなくなり、いっそのこと食べてしまえ、どうせもう食べたのだからと、食べてしまうのである。禁煙の失敗もまたこの理であり、ギャンブル戒めや薬物戒めの失敗も、すべてこの理である。意識は実のところ意根を管理できず、意根の煩悩習気は意識の理智をはるかに上回るので、意識はやむなく意根に従うしかないのである。
だから、意識だけが修行し意識だけが煩悩を断り、意根が煩悩を断らないなら、それは真の断煩悩ではない。意識が我見 (ātma-dṛṣṭi) を断り、意根が我見を断らないなら、それも真の断我見ではない。意識が理を明らかにし、意根が理を明らかにしないなら、真の明理ではない。片足だけで歩ける者はいない。意識と意根の両足は歩調を合わせねばならず、あるいは一前一後にぴったりと追従して、はじめてよく道を歩むことができる。心を善に向ける人は、ほとんど誰もが意識が意根を引導し勧導した経験を持っている。意根は理を明らかにせず善悪を知らないので、意識に多くの働きをしてもらい、意根を多く開導して善に向かわせてこそ、はじめて身口意行が善となることができる。意根には作主性と決定権がある。ただこの一点だけでも、意根の強大な功能作用を示している。種々の事例から見ると、意根に希求がなく欲がなければ、一切法は成立せず、すべて消失して、必ず無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) の中にあることになる。
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