衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2026年09月24日    木曜日     第1開示 合計4847開示

ある人が《大智度論》巻九を挙げる。仏語を第一の量とし、比量を第二とし、現量を第三とする。そしてこう言う。仏法の修学においては佛陀の聖教量を最高の準縄とし、凡夫の現量観察は煩悩・妄想・禅定の境地に覆い隠されてしまう。修行の流れは、聖教量に依拠して正見を建立し、さらに正見に依拠して実修し現量で証得するのであって、凡夫の不完全な現量をもって、仏と菩薩の聖教を覆すことではない。だから私の言うことはすべて経典の原文と照らし合わせたものであり、もし経典に依拠しないなら、それは自分勝手な独り言であって、基準がないということになる。

評点:仏教でいう智慧の境地は三つに分けられる。現量、比量、非量であり、その中で最も智慧があり、最も正確で誤りがなく、最も信頼に値するのは現量であり、その次が比量と非量である。そして現量とは、佛陀の聖教・聖言を修学し実証することによって得られた聖賢人の智慧であって、凡夫には分け前がない。凡夫にもし現量があれば、それはもはや凡夫ではない。現量という言葉は、観察と対応する実証によって到達した仏法の智慧であって、凡夫の衆生には適用されない。とりわけ比較的深い法、ましてや唯識の法については、凡夫の衆生には少しも現量観察の智慧がない。たとえ凡夫にも現れうる禅定の境地であっても、凡夫自身には現量観察の智慧がない。たとえ凡夫が常に密接に接触している六塵の境界であっても、凡夫には現量観察の智慧がないのである。だから実証のない凡夫にとっては、たとえ常に仏経を離れなくても、それは非量であって、自分自身の智慧の境地ではない。

現量の智慧を有する聖賢人は、その証の範囲内において、円満であるか、あるいは円満に近いのであり、絶対的な発言権を有するから、口を開けば閉じれば「仏曰く」「仏の説くところ」と、経典を引き証拠立てる必要はない。「現量」という二文字を通俗的に言えば、現前に具えている量度を表す。現前に具えているということは、実証を経てきたということ、すでに見証し、自ら経験したということである。それゆえ、この智慧こそが最も信頼し依拠するに値するのである。

譬喩で言えば、現量の智慧のある人は北京に行ったことがあり、北京に通じる道筋にとても精通しているので、人に北京へ通じる道を指し示す資格があり、地図を見る必要がない。もし他の人が道を尋ねたとき、地図を見る人のようであれば、それはその人が道筋に精通していないことを意味し、最終的には道を尋ねる人と指し示す人の二人で一緒に地図を研究することになりかねない。ならば道を尋ねる人自身が地図を持っているのだから、自分一人で研究すればよく、人を探して地図を見てもらう必要はない。また、人に水泳を教えることについて言えば、もしコーチが手に水泳の訓練書を持って教え、学员が水の中で講義を待っていれば、少し注意を怠れば水にむせて水底に沈んでしまうかもしれない。車の運転技術を学ぶ場合も同様で、もしコーチが訓練書を手に捧げ持ち、学员が練習中に障害に遭遇したとき、コーチが本を繰ってブレーキの方法を指導するのを待っていれば、少し注意を怠れば衝突事故や横転事故を起こしかねない。病人が病院へ行って診てもらうとき、病状を話した後、医者が「本を見て照らし合わせてから確定診断します」と言ったなら、賢い病人はすぐに逃げ出し、経験のある医者を探して診てもらうべきである。

あらゆる業種において、本から離れられないということは、その本業に熟達しておらず、まだ卒業していないことを意味し、みな石を探りながら川を渡っているようなものであり、人を教える資格がない。あらゆる業種の就業者が、みな教科書を手に持って作業をするならば、おそらく食べていくことすら困難であろう。あらゆる企業や事業単位は人材を採用する際に熟練者を募集するのであって、本から離れられない学生を採用することはなく、さもなければ団体は倒産の危機に直面することになる。

仏法も同じである。現量実証の智慧がなければ、必ず仏経の指導から離れられないが、ひとたび実証すれば、その部分の内容には精通し、語り出せば家の宝物を数え上げるように、もはや本を繰って照らし合わせる必要はない。まして多くの具体的な法については、仏経にも説かれておらず、本を繰っても見つからず、実証を経てきた当事者だけがその真偽を見分けることができる。なぜなら、すべて現量であって、頭の中にすでに備わっているものだからである。凡夫人は実証がないために、自分自身に自信が持てず、しばしば本を繰って答えを探さざるを得ず、本を離れるとどうしてよいかわからなくなる。このような人には法を説いて衆生を接引する資格はなく、自分自身がまだ学習を必要とする初心者なのである。

現量の智慧を有する菩薩が法を説くとき、聖賢人が法を説くときは、仏経・聖典と照らし合わせるのではなく、自分の心を見ながら法を説く。心の中に何があれば何を説き、法は自分の心の中から流れ出てくる。何の法を証したか、何の智慧が生まれたか、その証得した智慧をもって自分が証得した法を説くのであり、証得していない部分についてのみ仏経・聖典と照らし合わせて説くが、これは理解の次元に属し、自分が証し見たところを超えているのであって、理解が正しいか誤りかは別の問題である。仏法を証得した後は、その証得した法に対して現量観察の智慧を有することになるのであり、法を説くのはこの観察智慧に依拠して説くのであって、説きながら仏経と照らし合わせるのではない。それは現量の智慧のない人のすることである。仏経を手に持って法を説くのは、仏経を翻訳し、仏経を講解すると呼ぶべきものである。真の法を説く人は、仏経を説くのはごく一部にすぎず、多くは自分の現量の智慧に基づいて実際的かつ具体的な問題を解決するのであって、仏経にはない。仏経にあるものは、写し、そのまま持ち込むと呼ばれる。

唐・宋朝の時期、多くの禅師たちが一千七百則の公案を残した。それぞれの公案は具体的な特例であり、あえて仏経と照らし合わせて是非対錯を判断しようとすれば、大蔵経を繰っても見つからず、実証を経た聖賢人の現量の智慧によって判別するしかない。しかも禅師たちが衆生を接引するのに、仏経を手に持って接引した者は一人もおらず、現量の智慧と実践の経験が十分に足りていて、仏経を繰る必要がない。ある禅師は弟子たちが参禅するとき、弟子が仏経を見ることを禁じ、弟子たちに全心全意で参禅し功夫を作ることを求めた。禅宗はまた教外別伝ともいうが、仏経に重きを置かないとはいえ、その修めるところはすべて佛陀の指し示しに従い、経教に背かない。だから菩薩たちが法を説いて衆生を度すのは、みな自分の現量の智慧によって説くのであり、仏の聖教と相違しないのである。

——生如法師の開示
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