衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年03月28日    木曜日     第2 回の開示 合計1371回の開示

金剛経唯識深義(四十)

あらゆる相は如来蔵より生じ現れるが故に、諸相の運作は如来蔵を離れず、相を見る時に智者は相と共にある実相を発見する。誰が実相の真心を見出すのか。それは妄心なり、悟りとは妄心が真心を見出し般若智慧を得ることをいう。五陰十八界に現れる諸々の虚妄相の中にて、手を挙げ足を運ぶ動作、人を迎え送る所作、念仏を唱え仏を拝む行い、人を打ち罵る行為の中にも、常に真心が共に遍行していることを見出すことができる。六祖は「もし自性を見れば、刃を輪舞する戦陣にも見える」と説き、これ即ち此の理なり。

維摩経に曰く「菩薩が足を挙げ下ろすこと全て道場より来る」。唐の龐居士は「柴を運び水を汲むこと、これ即ち神通妙用なり」と説く。徳山は棒で人を打ちて此の理を学人に示し、臨済は大喝をもって学人を導き、趙州は「茶を喫しに行け」と説き、永明禅師は弟子に「仏を拝みに行け」と教えた。これらの禅師たちは皆、様々な機鋒手段を用いて学人を導き、福徳因縁が具われば実相に悟入し、大事を発明する。ある弟子が師匠に「私が此処に来て三年になりますが、未だ師より仏法を開示頂けません」と申す。師曰く「我どこに開示せざる所あらんや。汝が水を捧げれば我は飲み、飯を供すれば我は食らい、問訊すれば和南す。何処に仏法を開示せざる所あらん」。弟子が沈思するに、師曰く「見ようとすれば見えるもの、何を思うぞ」。弟子は直ちに悟りを得たり。

——生如法師の開示
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