衆生が目で色を見る時、真に色を見得ると考えるが、実は外界の色を衆生は決して見ることはできず、眼根が触れるのはただの仮の相、影に過ぎない。もし外色が本当に眼根に密着すれば、その外色を見ることはできなくなる。もし眼が本当に色に触れ得るなら、鋭い刃物を見れば刃先が眼球を傷つけ、火を見れば炎が眼球を焼き、砂を見れば砂粒が目に入ってしまうはずである。眼根と色は接触し得ず、色と眼根が一定の距離を保つことで初めて色塵の四大微粒子が伝達され、如来蔵が眼根を通じて外色に触れ、外色と全く同じ影を現出させることで見ることが可能となる。もし色が眼根に密着し空間的距離がなければ、色を見ることはできない。鼻根・舌根・身根は外界の香塵・味塵・触塵と直接接触でき、一定の距離を必要とせず、三つの識が生起して香・味・触を了別する。
眼識が見るこの影は外界の物質とは差異があり実体ではないため、網膜と伝達神経を経て後頭部の勝義根に至り、如来蔵がそこで眼識を現出させる。眼識が色塵を了別する時、この色は外色と同様に見えるが実際は相似に過ぎず、衆生はこれを真実と錯覚する。実際は全て影である。同様に耳根・鼻根・舌根も外声・香・味に触れず、全て如来蔵が接触後に現出させる。生あるものは全て虚妄の幻影であり、これが万法唯心の理である。要するに、凡そ相あるものは全て虚妄であり、諸相が相ならざるを見れば即ち如来を見る。五陰十八界の様々な相において、相なく相ならざる如来蔵を見出せたなら、それが如来を見ることであり、明心証悟して実相を観るのである。
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