衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月28日    木曜日     第1開示 合計1370開示

金剛経唯識深義(三十九)

衆生が眼で色を見るとき、真に色を見ることができると思い込んでいるが、実は外界の色を衆生は決して見ることはできない。眼根が触れるのは単なる仮相、影に過ぎない。もし外色が実際に眼根に貼り付くならば、その外色を見ることはできなくなる。もし眼が真に色に触れるならば、尖った刃物を見た場合、刃先が眼に接触すれば眼球を傷つけるに違いない。火を見れば火が眼に接触し眼球を焼くに違いなく、砂を見れば砂が眼に接触し必ず目を痛める。眼根と色は接触することができず、色と眼根には一定の距離があって初めて色塵の四大微粒子が伝達される。如来蔵が眼根を通じて外色と接触し、外色を寸分違わぬ影に変換して初めて見ることができるのである。もし色が眼根に貼り付き空間的距離がなければ、色を見ることはできない。鼻根、舌根、身根は外界の香塵、味塵、触塵と直接接触でき、一定の距離や空間を必要とせず、三つの識が生じられて香・味・触を了別するのである。

眼識が見るこの影は外色の物質とは差異があり、実物ではないため、網膜及び伝達神経を経て後頭部の視覚を司る勝義根に伝達され、如来蔵がそこで眼識を現出させ、眼識が色塵を了別する。この色は外色と一見同じように見えるが、実際には類似しており、衆生はそれを真実だと見做すが、実は全て影である。同様に、耳根、鼻根、舌根も同じく、外声・香・味には接触できず、全て如来蔵が接触した後に変現する。生じられたものは全て虚妄で幻化したものであり、これが万法唯心に由る道理である。要するに、凡ゆる相は虚妄なり。もし諸々の相が相にあらざることを見れば、即ち如来を見るのである。もし五陰十八界の様々な相において、相がなく相ならざる如来蔵を見出せたならば、それが如来を見ることであり、明心して証悟し実相を見たことになる。

——生如法師の開示
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