衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年03月30日    土曜日     第2開示 合計1376開示

想像上の第八識の体性は自心を変えることができません

一切の法は第八識が顕現したものであり、すべて空である。六七識がこの真実の理を証得するまでは、これは単なる推測と仮定に過ぎず、真実を証得していない段階では、理は理、あなたはあなた、空は空、あなたはあなたであり、両者に関係はなく、悟り以前の推測や仮定では、心を空にすることは永遠にできない。悟りを開いた後、絶え間ない第八識と五陰世間への有効な観察を経て、心は次第に空になり始め、煩悩を断じて入地した後、心は大部分が空になり、八地菩薩以降になってようやく大部分が空になる。真に第八識を実証し、次第に第八識の清浄な体性に転依し、転依が成功すれば、六七識は転識成智して地上の菩薩となり、完全に転依が成功すれば仏となる。したがって、第八識の空は六七識の空に取って代わることはできず、六七識は修証を経て初めて空を認識し証得し、心が空になるのである。そうでなければ口は空でも心は空にならず、煩悩魔は離れない。

六七地で第八識への完全な転依が成功するまでは、第八識が持つ種々の清浄な体性は、六七識も同様であることを意味しない。例えば、第八識は決して戒律を持たないが、六七識は第八識のように戒律を持たないわけにはいかない。なぜなら第八識には無明煩悩がなく、永遠に戒を犯すことがないので、戒を持つ必要がなく、また何かに触れる心もないからである。一方、六七識はそうではなく、煩悩の汚染が極めて重く、しばしば私利私欲のために悪業を造る。もし戒律を持たなければ、悪業は際限なく続き、悪報も際限なく続くため、悪趣や六道輪廻の苦から脱出できず、解脱を得ることができない。

また例えば、第八識は禅定を修めないが、六七識は第八識のように禅定を修めないわけにはいかない。なぜなら第八識は心が散乱したことがなく、一切の法に攀縁せず、無上の智慧を持ち、心が常に定中にあるため、入定も出定もないからである。六七識はそうはいかず、猿の如く散乱し、念念に変異して定まるところがなく、心の水が濁っているため、真理と真実を見通せず、愚痴と煩悩が重なり合っている。したがって禅定を修め、自心を降伏させ、善く思惟する能力を持ち、真実の智慧による解脱を求めなければならない。

さらに例えば、第八識は煩悩を断たないが、六七識は煩悩を断たないわけにはいかない。なぜなら第八識には断つべき煩悩がなく、六七識には煩悩無明が極めて多いため、断たなければ生死の苦海に沈み、出る期がないからである。

もし第八識と比べるならば、世間の五欲六塵において、第八識が如何に清浄であるか、六七識もそれに倣って清浄であるべきであり;第八識が如何に無我無私であるか、六七識もそれに倣って無我無私であるべきであり;第八識が如何に休みなく勤労して衆生に奉仕するか、六七識も学び習うべきであり;第八識が如何に一切の智慧を具足しているかを観察し、六七識はなおさら学び習うべきである。このように見習うことによってのみ、早く仏となることができる。

しかし、真に第八識を証得していなければ、第八識と見習うこともできず、想像上の第八識の体性は自らの真実の所縁とはならず、自心を変えることはできない。したがって、菩薩の六波羅蜜を努力して修行し、実証を期す必要がある。

——生如法師の開示
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想像上の修証は役に立たない

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