修持せずにただ他人に説くだけでは、耳の聞こえない者が音楽をかけて聞かせるようなもので、音楽は美しいけれども自分はまったく聞くことができません。仏法を修持しない者もこれと同じです。
あたかも大海の船頭が、常に人を乗せて海を渡すけれども、自らは大海で命を落とすかもしれないように、仏法を修持しない者もまた同じくそうなのです。
口では砂糖の甘さを説きながらも自らは一切味わわないのと同じで、もし仏法を修持しなければ、どれほど巧みに説いても心に仏法の甘美さを感じることはできず、その味わいを堪能することはできません。したがって、ただ言葉で説くだけで修持しないならば、自相続が真に利益を受けることは不可能です。
多くの人は、ただ法を説くことができれば、すでに実証しているのだと思い込んでいます。しかし実際はそうではありません。実証を経ずに説法するならば、真の指導的意義はなく、その道を自ら歩んだこともないのに他人に歩み方を教えるのは、奇妙なことに荒唐無稽であり、推測の方法を用いているに過ぎず、他の人がどうして実証できましょうか。前世の根基が非常に優れていた人を除いては。
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