衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年04月01日    月曜日     第2 回の開示 合計1382回の開示

金剛経唯識深義(五十)

阿耨多羅三藐三菩提とは無上正等正覚のことであり、至高の真実なる覚りを得て、無明をことごとく破り、いささかの雑染も無明も含まず、心はすべて明と覚に満ち、ついに究竟の菩提を証得し、仏道を成就し、仏果を円満することを指します。固定的な法として阿耨多羅三藐三菩提が存在しない以上、真に固定不変の成仏者も存在せず、一切の法は因縁によって成り立っています。仏の説かれた法も因縁によって生じ、衆生の縁に随順します。衆生に成仏を求める因があれば、衆生を成仏せしめる法を説き、縁が異なれば世尊の説法も変化します。したがって仏の説かれた法は究極的には執着すべきものではなく、永遠不滅・不変の法ではないからです。言葉で表せる法は本来の不変なる真如の法ではなく、しかし真如自性を離れてこれらの法が生じることもありません。

ではいったい誰が仏道を成就し仏果を得たのでしょうか。妙覚菩薩は成仏前の最後の菩薩身であり、成仏のために人間界に降りて八相成道を遂げます。母胎に入る際、菩薩の色身は滅し、意根と異熟識すなわち第八識が胎内に入ります。出生時には六根具足、六識具足(人間は生後七日以内は眼識を持たない)、五蘊具足となり、外相は衆生と変わりません。この新たな五蘊はもはや妙覚菩薩の五蘊ではなく、色身と六識は入れ替わりますが、意根と異熟識のみは元のまま連続しています。出家修行の後、夜明けの明星を観じて大悟見性した時、七つの識の無明が断尽し、第六識は妙観察智に転じ、意根は平等性智に転じ、さらに前五識は成所作智に転じます。七識が悉く転じ終わると、第八識異熟識に含まれる七識の染汚種子が滅尽し、大円鏡智すなわち無垢識へと変わります。八識が全て転じ終わると仏道が円満し、仏果を得て仏と称されるのです。

ではこの仏とは誰が成じ、仏果は誰が得たのか分析しましょう。まず仏の無垢識は無所得の心であり、自ら何かを得ようとせず、たとえ得たとしても置く場所がなく、何も得るものはありません。思想も心の働きもなく、自らを真実の存在であると認めず、自らが仏であるとか如何様であるとか考えることはありません。すべての名称は人が付与したものであり、是か非かといった概念を持ちません。善悪・染浄を問わず、いかなる法にも執着しません。執着しないが故に一切の影響を受けず無明がなく、執着しないが故に何かを為すことも、何かになることもありません。したがって仏の果位を取らず仏を為さず、仮に仏であると言うならば、それは人が付与した称号であって自らが認め自任したものではないのです。

——生如法師の開示
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