阿耨多羅三藐三菩提とは、無上の正しい等しい正覚であり、無上の真実の覚受と悟りを得て、無明を完全に破り、微塵の染まりや無明も含まず、心はすべて明るくすべて覚っている状態、すなわち究竟の菩提を証得し、仏道を成就し、仏果を円満したことを指す。そもそも固定した法として阿耨多羅三藐三菩提と呼べるものは存在しないのだから、真に固定不変の成仏者も存在せず、一切の法は因縁によって成り立っている。仏の説かれた法も因縁によって成り立ち、衆生の縁に随順する。衆生に成仏を願う因があれば、衆生を成仏させ得る法を説き出すのである。縁が異なれば、世尊の説かれる法も異なる。したがって仏の説かれた法は、究極的には再び執着すべきものではない。なぜなら、それは固定して永遠に滅せず変換しない法ではなく、言葉で表せる法は、元来から存在する固定不変の真如の法ではないからである。しかしながら、これらの法は真如の自性から離れて生成されるものでもない。
では、いったい誰が仏道を成就し、仏果を得たのか。妙覚菩薩は成仏前の最後の身の菩薩であり、成仏するために人間界に来て八相成道する。母胎に入る時、菩薩の色身は滅し、意根と異熟識、すなわち第八識が胎内に入る。出胎時には六根が具足し、六識が具足し(人間は七日以内は眼識を持たない)、五蘊が具足し、外見は衆生と変わらない。この新しい五蘊はもはや妙覚菩薩の五蘊ではなく、色身も六識も入れ替わっている。ただ意根と異熟識だけが元のままであり、連続しているのである。その後出家して修道し、夜に明星を観て大悟見性した時、七つの識の無明が断じ尽くされ、第六識は妙観察智に転じ、意根は平等性智に転じ、そして前五識は成所作智に転じる。七つの識がすべて転じ終わると、第八識である異熟識の中に含蔵されていた七つの識の染汚の種子が滅尽し、大円鏡智、別名無垢識に変わる。八つの識がすべて転じ終わると、仏道が円満し、仏果を得て、仏と呼ばれる。
では、この仏とは誰が成し、仏果は誰が得たのかを分析しよう。まず仏の無垢識は無所得の心であり、それ自体は何も得ようとせず、たとえ得たとしても置く場所がなく、何も得ることはできない。それは思想を持たず、心の働きもなく、決して自らを真実であると認めず、自らが仏であるとも、自らが如何様であるとも思わない。すべての名称は人が付けたものであり、何であるか何でないかといった概念を持たない。また、善悪を含め、染汚・不染汚を問わず、いかなる法にも執着しない。執着しないがゆえに、決して染まることがなく無明もない。執着しないがゆえに、何も為さず、何にも成ろうとしない。したがってそれは仏の果位を取らず、仏を為さない。もしそれを仏であると言うなら、それは人が付与した称号に過ぎず、自らが認め自らを称したものではない。
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