衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2019年04月02日    火曜日     第1開示 合計1383開示

金剛経唯識深義(五十二)

だから仏法は川を渡るための船筏のようなもので、岸に着けば捨て、使い終われば抛げ去るのです。これは法が因縁によって存在するものであり、すなわち虚妄の空であることを示しています。一定のところまで修めば、執著してはならないのです。衆生の無明はそれぞれ異なるので、仏が説かれる法も異なり、如来が宣説すべき一定の法というものは存在しません。だから如来が宣説される法は執取してはならないのです。それもまた空であり、因縁によって形成されたもので、ただ一段期間の修行のために用いるものであり、使い終われば捨てるべきで、いつまでも執取してはなりません。しかし無明がまだ存在している間は、それをしっかり掴み、道具として用いなければならないのです。

たとえば四聖諦の法は、果を証して解脱を得た後には、この法は阿羅漢にとってはもう用がありません。さらに縁覚として修むるのは十二因縁の法であり、辟支仏の果を証得した後には、因縁の法ももう用がなく、さらに菩薩の六度を修める必要があります。明心見性した後には、外門の六度の法はもう用がなく、さらに内門の六度を修めて初地に入ります。入地した後には、内門の六度はもう用がなく、さらに十度波羅蜜を修め、十地菩薩となった後には、十度波羅蜜を捨てます。等覚・妙覚の法を修め、仏道を円満した後には、一切の法はすべて用がなく、ことごとく捨て去られ、心中は空空として法がありません。

すべての法を円満に修持し終えてこそ、成仏後に衆生のために宣説することができるのです。だから如来の説かれる一切の法は、本来から存在する固定不変の法ではなく、すべて空であり、真実の法ではありません。しかし、真実の法でないわけでもありません。なぜなら衆生はこれらの法によって真実の法である無為法を証得することができ、また仏がこれらの法を宣説される時も、真実の真如の法を離れたことは一度もなく、まさに真如の法がここで働いているからこそ、仏は宣説することができるのです。これらの法はすべて仏の自心真如から来たものであり、真如の中から流れ出たもので、真如の一部であり、真如とは不一不異の関係にあるのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

金剛経唯識深義(五十)

次へ 次へ

金剛経唯識深義(五十三)

ページトップへ戻る