したがって、仏法は川を渡るための筏のようなもので、岸に着いたら捨て、使い終わったら投げ捨てるものです。これは法が因縁によって存在するものであり、虚妄で空であることを示しています。修行がある段階に達した時には執着してはなりません。衆生の無明がそれぞれ異なるため、仏が説く法もまた異なり、如来が説くべき固定した法は存在しないのです。したがって、如来が説く法は執取すべきものではありません。それも空であり、因縁によって形成されたもので、一時的に修行の手段として用いられるだけで、使い終わったら捨て去るべきであり、いつまでも執取してはなりません。無明が存在する間はそれをつかんで道具として用いる必要があります。
例えば、四聖諦の法は、果を証して解脱を得た後は、阿羅漢にとってはもはや役に立たなくなります。次に縁覚を修める十二因縁法は、辟支仏果を証得した後は因縁法も不要となり、菩薩の六度をさらに修める必要があります。明心見性した後は、外門の六度法は不要となり、内門の六度を修めて初地に入ります。入地した後は内門の六度は不要となり、十度波羅蜜を修めます。十地菩薩となった後は十度波羅蜜を捨て去ります。等覚妙覚の法を修め、仏道を円満成就した後は、一切の法が不要となり、すべてを捨て去って心中は空々として法も無くなります。
すべての法を円満に修持した後にのみ、仏となって衆生のために説法できるのです。したがって、如来が説く一切の法は、元から存在する固定不変の法ではなく、すべて空であり、真実の法ではありません。しかし、全く真実ではないわけでもありません。衆生はこれらの法に依って真実の法である無為法を証得できるからです。さらに、仏がこれらの法を説く時も、真実の真如法を離れたことはなく、まさに真如法がここで作用しているため、仏は説法できるのです。これらの法はすべて仏の自心の真如から生じたもので、真如の中から流れ出たものであり、真如の一部であり、真如とは一でもなく異でもない関係にあります。
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