もし第七識に信がなければ、意識の信も偽りの信であり、基本的には何の役にも立たない。第七識が精進しなければ、六識の精進はすべて偽りの精進であり、長く精進することもなく怠けてしまう。六識は第七識の指揮を受けるからである。
第七識に慚愧がなければ、意識の慚愧はすべて偽りの慚愧であり、第七識は依然として悪である。
第七識に無貪・無瞋・無痴がなければ、貪瞋痴の煩悩を断除する必要はなく、直接に第三果・第四果となる。意識に貪瞋痴の煩悩があっても、長く貪瞋痴することはできず、意識は第七識の指揮を受ける。後に第七識には貪瞋痴の煩悩があると言われているが、これは自己矛盾である。
第七識に邪見・辺見・見取見・戒禁取見がなければ、これらの邪見を断除する必要はなく、意識におけるこれらの邪見は長く続かず消滅する。意識は後世の生死流転を主導することはできない。
最も重要なのは、もし第七識に定がなければ、六識は全く定に入ることができず、仮に本当に定に入ってもすぐに散乱してしまう。六識は必ず第七識に従わなければならず、第七識が至る所に攀縁すれば、六識は必ず至る所で了別せざるを得ず、自主性を持てない。そうでなければ第七識は主導識とは言えない。
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