原文:我もなく人もなく衆生もなく寿者もなく。一切の善法を修めれば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を得る。
釈:世尊は仰せられる。衆生の心の中に我相・人相・衆生相・寿者相を執着せず、我相なく人相なく衆生相なく寿者相なき心をもって、世出世間の一切の善法を修行すれば、阿耨多羅三藐三菩提を得て成就するであろう。
世尊は金剛経の冒頭まもなく、衆生のために四相を破り給うた。四相を破った菩薩のみが、金剛般若の理体に相応し、諸法実相に相応し、真如に相応し、ついには阿耨多羅三藐三菩提に相応することができる。衆生は無始劫以来、ずっと四相に執着し、空性の理体に相応しないがゆえに、四相のために無量無辺の悪業を広く造り、劫を積んで生死の業海に沈没し、無量の苦しみを受け、出離の期なき根源は、四相に執着する病にある。世尊は大慈をもって、衆生の相に着き相に執する病根を掘り起こすために、巧みに種々の方便を設け、衆生の四相を破らんとし、四相なきをもって生死の大火坑より出離せしめ給う。
なぜ四相なきをもって生死の大火坑より出離できるのか。小乗の法の角度から言えば、衆生は我相を破るだけで三悪道を出離し、自我の五陰身および三界の世間法への執着を断除できるまで修行すれば、六道生死輪廻を出離する能力を得、こうして分段生死の火坑を出離し、暫時休歇を得る。衆生が引き続き菩薩道と仏道に向かって進修すれば、次第に種々の法執を破り、種々の変異生死を断除し、涅槃の真浄を証得し、これより生死は全くなくなり、生死の大火坑は真に徹底的に出離するのである。
そして菩薩道と仏道に入る起点は、本来四相なき金剛般若の真如心体を証得することである。この四相なき理体に依って修行を起こし、内心が転々と清浄になれば、世間の一切の有為法相を破り、真如の相すらも執せず、内心は空浄極まりて空浄、余すところ一つの法相の存在と執着もなきに至って、はじめて真如心体と徹徹底底相応し、ついには円満に仏道を成就し、阿耨多羅三藐三菩提を得るのである。ゆえに世尊は、我もなく人もなく衆生もなく寿者もなく、一切の善法を修め、真如の体性に相応してこそ、阿耨多羅三藐三菩提を成就できると説かれたのである。
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