『僧伽を讃える功徳経』に云く:「たとえ沙門が戒律を破るのを見ても、心を寛げて嫌悪や誹謗を抱いてはならない。芳しい花園に入って美しい花を摘むようなもので、枯れた枝葉を選り分けるべきではない。広大で清浄なる仏法の大海には、戒律を守り精進する者が数多くいる。その中に威儀を犯す者がいたとしても、在家信者は誹謗してはならない。譬えば田んぼの新苗の中にも雑草が混じるが、良田そのものを敬うべきであり、選り分けて分別を生じさせるべきではない。この故に世尊は人々に制し給う、沙門の衆を誹謗することを許さず、ただ尊重し敬心を生じ、この同じくして勝れた諸天の果報を受けよ」と。
『一切功徳荘厳王経』に説く:「四種の魔がある。何が四つか。一に財物に貪着すること。二に悪友に親近すること。三に法師を妨げること。四に法師の説法に対してその罪過を述べること(出家者の是非を宣説する者は、この人すなわち悪魔である)。これらの衆生はこの業によって貧窮を受け、善き友を見ず、尊師から遠ざかり、邪見を抱き、因果なしと説き、地獄に堕ちて諸々の激しい苦しみを受ける」。
『戒経』――『薩婆多毘尼毘婆沙』巻六に説く:「仏法を大いに護るが故に、もし白衣(在家信者)に向かって比丘の罪悪を説けば、その前人(信者)は仏法に対して信敬の心を持たなくなる。寧ろ塔を破り像を壊す(これは極めて重い罪である)とも、未だ具足戒を受けていない者に比丘の過失を説いてはならない。もし過失を説けば、法身を破るのである」。
比丘の過失(是非)を説く者の罪業は、「仏塔」と「仏像」を破壊する重罪を超える。『宝性論』に云く:「もし数々の悪人に近づくが故に、悪心を具えて仏の血を流し、父を殺し母を殺し羅漢を殺し、最勝の和合僧を破壊する者であっても、もし法性を思惟し修めることができれば、この人は速やかにここから脱する。もし人が悪心をもって聖なる法を謗るならば、この人にどうして解脱がありえようか?」
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