捨受の心は、一切の好悪の境界に対して心がとどまらず執着せず、一切の境界に対して平等一如であり、喜びも憎しみもなく、貪りも怒りもない。このような心こそが解脱の心であり、寂浄の心であり、無為の心である。第八識はまさにこのように、心がとどまらず執着せず、怒らず喜ばず、平等一如であり、一切の境界に対して如如不動で、完全に捨受である。もし意根が捨受であるならば、如来蔵と同じく一切の法に対して平等一如であり、一切の境界に対して如如不動で、怒らず喜ばず、貪瞋痴がなく、寂浄解脱である。そうなれば、衆生はもはや修行して解脱を求める必要はない。したがって、意根は単に捨受のみではなく、苦楽受もあると言われる。意根は善悪の薫習を受け、善悪の業を造作するため、捨受ではない。衆生にさまざまな貪瞋の煩悩があることは、意根が捨受でないことを示している。第八識は決して一切の法に対して貪瞋を起こさない。これこそが捨受の心である。
『瑜伽師地論』第六十三巻には、意根が三受を具足することが説かれている:また諸々の転識は、ある時は一切が楽受と相応してともに起こり、ある時は苦受をも有し、ある時は不苦不楽等の受とも相応してともに起こる。阿頼耶識の相応する受は、一切時にただ不苦不楽のみである。ここでは八識の受が説かれており、ただ阿頼耶識のみが捨受であり、その他の諸転識は三種の受を有する。諸転識とは七つの流転する識を指し、ここでは七転識が時に楽受と相応し、時に苦受と相応し、時に不苦不楽受と相応すると述べられている。
修行が深まるほど、情緒は薄れ、捨受に相応する。七覚分の最後は捨覚分であり、心境は非常に平穏で起伏がなく、いかなる境界に遭遇しても平静で、心は止水の如し。ここには意識の捨受もあれば、意根の捨受もある。もし意根が捨受でなければ、意識は捨受できない。意根が識を転じて智となった後も、一切時中が捨受ではなく、情緒的な時もあるが、以前より情緒化が少なく軽微である。阿羅漢は我執を断じ、貪瞋痴の煩悩を除去したため、心が平淡である時間が非常に多いが、一切時中が捨受ではなく、苦楽受もある。意識は煩悩を断じ、識を転じて智となった後、捨受がますます増え、情緒化が少なくなり、苦楽受が減る。いかに苦しくとも、阿羅漢たちは一般に苦を感じず、いかに楽しくとも、阿羅漢たちは楽とせず、貪愛がないためである。
しかし阿羅漢たちの意根には依然として苦楽受がある。そうでなければ、彼らは娑婆世界の苦を避け、無余涅槃を選び、苦を離れて楽を得ようとはしない。もし阿羅漢の意根が五陰世間の苦を感じなければ、灰身泯智して顧みることなく涅槃に入り、苦を滅ぼして清涼の楽を図ることはない。小乗が修める苦集滅道の四聖諦は、意識が修め終えた後、意根を薫染し、意根とともに苦集滅道を証得する。したがって意根も意識と同様に、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修めなければならない。意根は最終的に苦を知り、集を断ち、道を修めることで自己を滅ぼそうと願う。ここから、意根は必ず苦を知り、苦受があるからこそ、断固として集を断つことができるのである。
甚深な禅定を得た時、仏法を思惟観行して初めて事実の真相を観じることができ、真実の智慧が生起する。そうして初めて真に法に依り、特定の権威者や著名人に依らないのである。禅定がなければ観行思惟ができず、往々にして人に依らざるを得ず、法に依ることは不可能である。他人の言論を暗誦することは、すべて人に依ることに属する。法に依るとは、事実の真相に依ることを意味する。事実の真相は禅定の中で観行思惟によって得られるものであり、決して名言名句を暗誦する復唱機のようなものではない。今日のネット上には復唱機が至る所に存在し、各人が得意げに自分がどれほど博学で、どれほど多くを知り、知識がどれほど豊富かと思い込んでいる。学富五車どころか、たとえ百車の学があろうとも、生死とは何の関係もなく、生死を解脱することはできない。
5
+1