衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年05月06日    月曜日     第2 回の開示 合計1503回の開示

金剛経唯識深義(一四五)

原文:何故なりや。世尊は我見・人見・衆生見・寿者見を説きたまえり。即ち我見・人見・衆生見・寿者見にあらず。これを名づけて我見・人見・衆生見・寿者見とす。

釈:何故かといえば、世尊の説きたもうところの我見・人見・衆生見・寿者見は、真実に我見・人見・衆生見・寿者見が存在するのではない。いわゆる我見・人見・衆生見・寿者見は実在の法にあらず、真実の法相なく、仮に名づけて我見・人見・衆生見・寿者見とするのみ、全ては名相に過ぎない。

須菩提のこの言葉は、我見・人見・衆生見・寿者見という知見の実在性を否定し、まさに経文の前段にある般若の義理に順じたものである。これらの見が真実の法にあらざるが故に、修行によってこれらの見を除き、四相を破れば、かの公式「所謂…即非…是名…」が成り立つ。この公式の義理は、世間万法の実在性を否定し、真実の意味における世間万法は存在せず、全て虚妄であることを示す。これらは全て如来蔵より生じ顕現したもので、如来蔵の種子の功能作用であり、その本質もまた如来蔵である。故に世間の一切万法は仮名に過ぎず、実義なし。

我見・人見・衆生見・寿者見、この四種の邪見もまた世間万法の中の法に属し、後天的に生じ滅する法、先に無く後に有り、有って後また無き法である。実は存在する時も刹那刹那に生滅しており、その生滅の速さに衆生が気付かぬため、実在すると錯覚し、様々な誤見と邪見を形成する。これらの邪見は虚妄の仮相に過ぎず、真実ならざるが故に、衆生は修行によってこれらの邪見を断じ、正しい知見と見地を具足することができる。これらの邪見には自性なく、自主性なく、外縁に依存して存在し、如来蔵より種子を輸送されて生じるもので、その本質は如来蔵の性である。

では我見とは何か。如何にして生ずるか。我見とは我相に対する知見であり、正見は我相を空と見、誤見は我相を有と見る。まず「我」について、衆生が考える我とは、色身を指す場合、六識心を指す場合、第七識意根を指す場合、あるいはこれら三者を合わせた五陰我や十八界の我を指す。これらの我は全て仮我であって真実ならず、因縁によって生じ、実体なく幻化して存在し、縁滅すれば散じ、依拠すべきものなし。

色陰は如来蔵の四大種子より生成し、生住異滅して変異無常、現象としては有り、実質は無く、本質は如来蔵なり。受陰は六識の感受、如来蔵が六識種子を輸送して生成し、生住異滅して幻化実ならず、縁滅すれば散じ、依拠すべきものなし。想陰は六識の六塵相に対する執取と了知性、如来蔵が六識種子を輸送して生成し、幻化して有り、縁滅すれば散じ、依拠すべきものなし。行陰は六識の身口意行の遷流変化、および色身の変化、如来蔵が七大種子を輸送して生成し、生住異滅して幻化実ならず、縁滅すれば散じ、依拠すべきものなし。識陰は六識の了別性、如来蔵が輸送する六識種子より生成し、幻化真ならず、縁滅すれば散じ、依拠すべきものなし。四陰もまた実体性なく、自在性なく、現象としては有り、実質は無く、本質は如来蔵なり。

これが衆生の考える五陰我、刹那生滅し刹那変異するも、衆生は覚らず実有と見なし、執着を止めず。衆生の考える我には十八界法(六根・六塵・六識)も含まれ、これらの法も如来蔵が七大種子を輸送して生成し、生滅変異し、現象としては有り、実質は無く、本質は全て如来蔵なり。五陰十八界を我と見なして我見を生ずる者は誰か。第六識と第七識なり。第六識を断続我見と称し、第七識を倶生我見と称す。第六識の存在は断続的で未来世に至らず、生命終結と共に消滅し、生命出現と共に出生する故に断続的なり。第七識は無始劫以前より常に存在し、未来世に至り、四果阿羅漢を証得し執着を断じ尽くして初めて滅す能力を得る故に、倶生我見・倶生我執と称す。

我見を有する主はこの二識なり。この二識は如来蔵が識種子を輸送して初めて出生存在し、作用を起す。故に六識と七識は自主性なく、実体性なく、自在性なく、生滅変異し幻化無常、かつ刹那刹那に生滅変異す。されば六識の我見と七識の我見、即ち我見にあらず、真実に存在する我見にあらず、実体ある我見にあらず、幻化の我見なり、本質は如来蔵なり。故に六識の我見と七識の我見を我見と名づくれば、我見はただ仮名のみ。

我見に対応する人見・衆生見・寿者見もまたこの理に同じ。全て如来蔵が幻化する六七識心より生起する誤れる邪見なり。これらの邪知錯見も真実に存在せず、陽炎の如く空幻実ならず。表面は有りの如く、実質は無く、本質は全て如来蔵なり、真実のこれらの邪知錯解は存在せず。煩悩即菩提の如く、煩悩の本質は菩提心如来蔵なり。邪知邪見も菩提心如来蔵の功能作用、故に本質は如来蔵なり、これ以外に他なし。

——生如法師の開示
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