第五章 三十七道品成就後に初めて悟りを証得する
一、三十七道品の修行次第は大略次の通りである。最初の五根中の信根より修行を始め、五根が増長した後は五力を具足し、その後八正道に入り思惟修を発起し、七覚支を修習する。念覚支において四念処観を修習し、善法味を得て四正勤を起こし、最後に勤苦の修行を経て四神足の果楽を得、心が自在解脱する。
三十七道品の各品目は、意識が精進して修習するだけでなく、同時に意根を薫習させ、意根と意識が共に修習して各道品を円満具足させ、最終的に四神足を成就しなければならない。意識が念力で意根を薫修し、意根の念力を具足させ、念力を成就させる。あらゆる法は最初に意識の薫修によって導かれ、意根が具足して初めて、その法を実証できるのである。
意根が身心の実在性を証得して初めて解脱を得る。意識が身心を実在しないと認識しても解脱は得られない。認識と証得の間の距離は遠くも近くもあり、完全に修行者の修持の程度による。修持がなければ、その隔たりは無量劫を要するかもしれない。
二、小乗の証果の要は七覚分の修持にある。七覚分は既に大略述べたが、修行の過程も四加行の過程である。煖・頂・忍・世第一法の四段階は、文字上の理論を基礎として、さらに内心で加工する過程である。加工過程において、内心は必ず次第に相応の変化を起こす。これは観行の法義が次第に内心の意根と相応し、意根が徐々に領納受容する過程である。もちろん最初に意識が先に領納受容し、勝解を生起させ、その後意根に伝達して意根に領納受容させる。意根が領納受容した後、身心は次第に転変し、七覚分が逐一出現する。定覚分が出現して初めて、大智慧をもって五陰身心の法相を捨て、法を証得し、世間第一の初果人となるのである。身心に変化がなく転変が起こらず、七覚分が成就していなければ、我見を断じて証果することは不可能である。
煖相とは、初歩的な修学段階において文字理論を通し、自ら思惟観行した後、内心に煖相が現れることである。火花が散るように、心が思惟した正しい理論に幾分か同調し、修める法に対する初歩的な認知と興味が生じ、その中の内包をさらに深く探求したいと思うようになる。
頂相とは、この段階で理論の認知がある程度に達し、一定の高さを得て、五陰身心の空と無我性を理解し、五陰認知の頂点に至る。この時はまだ意識の認知と勝解の段階にあり、意根が完全に認知し勝解していないため、内心に未だ躁動があり、五陰空無我の認知に完全に認可し安住することはできず、進退両様の段階にある。
この段階で、ある者は内心に激しい反抗が起こり、思想が躁動不安となり、感情に浮き沈みが生じる。ある者は非常に苦悩し、理由もなく焦燥感や憂鬱を感じるかもしれない。この段階を過ぎると意根が幾分適応し、情緒が正常に戻り、次の段階に入る。意識が空に安忍するだけでなく、意根も安忍するようになる。そしてさらに深く探求し、究竟的に五陰がなぜ空で実体がないのかを究明する。
第三段階は忍である。忍とは安住、つまり空義に安住し、五陰の無常性を忍可することである。ただし真実の証得ではない。証拠が未だ不十分で、内心の考量が足りず、この理を真に確認できないため、内心が躁動せず比較的安分である状態である。同時に証拠を探し求め、現量で五陰身心の実質を観察しようと努力する。この時、身心の覚受は次第に軽安となり、喜びが増し、禅定はますます良くなり、智慧は深細かつ敏捷となり、空の念は堅固になるが、未だ捨に住することはできず、内心に捨覚分がない。
捨覚分が成就した時、内心の我の観念思想を捨て去り、内心が空となり、五陰空無常の観念が堅固に確立され、証拠が充分となり、内心が完全に五陰空無我を認可確認する。第四段階の世第一法が成就し、我見を断除して初果を証得する。
観行の過程において、身心は絶えず変化を起こす必要がある。なぜ変化が起こるのか。意識の勝解を通じて、意根が次第に一定の了知を得、従来の観念と相反し、徐々に従来の認知を覆すためである。意根が新たな境地を発見すると、身心に相応の変化と反応が現れる。したがって我見を断じ、五陰無我を証得するのは、必ず意根が証得するのである。
我見を断った後に現れる覚明現象や、身心に現れる様々な軽安喜悦の現象は、意根が促すものであり、意根が身心に現す反応である。意識は身心に反応を起こさせたり、軽安や喜悦の覚受を現出させたりすることはできない。したがって我見を断つのは必ず意根が我見を断除するのであり、単に意識が我見を断つのではない。意識の我見はもちろん既に断除されている。
軽安喜悦覚明の現象が現れないまま、五陰無我と認識するのは、意識が我見を断った状態であり、まだ意根の深層まで達していない。意根が最初にこの理を認知する時、反抗や焦燥の現象が現れ、程度の差はあるが様々な表れ方をする。前世の根基が良く、五陰を観行したことがある者は、これらの焦燥情緒が起こらず反抗もせず、直接喜悦の心境が現れる。
実修とは何か。これが実修である。これらの段階と過程がなければ、真に我見を断ったとは言えない。真に我見を断った後は、身心必ず転変し、心行必ず変化し、聖性必ず現れ、内心必ず空である。どうしてそれほど深刻な煩悩が残り、多くの乱れた現象が現れることがあろうか。あり得ない。内心が空になれば、余計なことは造作したくなくなり、無為と初歩的に相応する。どうして多くの乱事が発生し、ましてや多くの悪行が現れることなど、根本的にあり得ない。
禅定が不足していると、観行は本当に苦労し、法義の吸収と理解が不十分となる。特に深法や甚深法は、さらに理解し信受することができず、そのため疑いが生じ、疑見が絶えず、内心が安穏でなくなる。
三、小乗において我見を断つには、三十七道品を修め終え、七覚分を具足し、八正道を具足しなければならない。喜覚分と猗覚分(軽安覚分)の現象が現れ、次に定覚分が現前する必要がある。これらは全て禅定と不可分であり、禅定の前奏と後続に属し、禅定の範囲に含まれる。
仏法を思惟する過程においては、身心の軽安と内心の喜悦が生じるべきである。これは七覚分の修証内容の一つであり、仏法が意根の心に入り、意根がある程度認可したことを示す。ただし完全ではなく、四加行の煖相現前とも言える。
あらゆる法の証得は確実に意根と関係があり、全て定と関係がある。七覚分の修証がこの事実を説明しており、これによって意根と証悟修証の関係に経典的根拠が生じる。定慧と意根は須臾も分離できず、意根が証得して初めて真の智慧が生じる。意根に禅定があってこそ智慧が生まれ、意識単独の知解には大智慧がなく、ただ学人の言葉をなぞるだけで、知解宗徒と呼ばれる。意根の修証における重要性について、七覚分は良い証拠である。八正道でも八つの正が説かれるが、全て意根を修めることを指す。正とは主に意根の思想観念を正しくし、その主宰として一切の身口意の行為を正行させることである。意根が改正されなければ、八正道は成就しない。
受想行識は全て空・無我である。では誰が受想行識しているのか。能く受想行識するのは七識心であるが、これもまた空無我である。受想行識を空と観察する意識は空無我であり、観察者が空であることを知る意識は空無我であり、一切法が空無我であることを了知する六七識心は空無我である。心に知・念・思想がある限り、全て空無我である。観世音菩薩の耳根円通章では、一切法を空じ、能空所空の法を全て空じ、最後に実在として空じきれないものが残る。これが自心如来蔵であるが、自心如来蔵にも住さず、修行が完成する。
四、四聖諦・四正勤・四神足・五根・五力・七覚分・八正道の三十七道品は、全て見道前後の修行過程である。大小乗で大同小異があり、修行過程が相似している。これらの過程の薫習がなく突然果が現れ聖人となるなら、その果は疑わしく極めて信頼できない。果と結論は模倣可能で、全ての知見は暗誦できる。本を多く読めば暗誦し想像できる。
しかしこれらの過程は誰も模倣できない。見道証果する者が必ず経なければならない過程である。各人の過程は前世の根基により多少の差異がある。前世ですでに証果した者は、今世これらの過程を急速に通過するかもしれないが、他の者はそうではなく、全て実践実証し、各関門を突破しなければならない。大乗の果位も同様である。これらの過程を全て経て初めて、その身心は転変し、証果時に解脱の功徳受用が得られる。これらの過程を経ない者の得た果は、空中の花の如く、鑑賞するのみで実用価値がなく、解脱の功徳受用がない。
所謂る実修とは、大小乗の三十七道品の修行内容である。これらの具体的な修行内容を離れては実修ではなく、結論のみで過程のない修行は実修ではない。理論だけ学ぶのは実修ではない。理論で幾地菩薩の理まで学んでも、その理を理解しても、実際の証得までには無量劫二無量劫の隔たりがある。一二無量劫後の理論を今学び、自分が掌握したと思い聖人と自認し、前段階の道を歩まず、実際の修行過程を経ず実践しなければ、そのような修行は夢幻泡影であり、空花を得て空果を結ぶだけである。
五、四聖諦法の苦集滅道も内法塵と外法塵に分かれ、修道諦の八正道も内法と外法に分かれる。八正道を修め終え、小乗三十七道品を修め終えて初めて、我見を断つ条件が整い、その後証果できる。心行が八正道に合致しなければ、聖賢たるに足らず証果できない。八正道中の正定は、意識の外定法と意根の内定法に分かれる。したがって意根は必ず定と相応し、意根を定め終えて初めて正智慧が生起し、我見を断ち初果を証得する。さもなくば全て偽果・朔料果であり、観賞するのみで実用がない。
六、大念住経は、仏が我々に観行方法を教える経典である。観行できない者が、仏の導く思路に従い定中で思惟するのが観行であり、観行の最後に決定心が生じ、最終結論が出る。この結論が仏の指し示す事実真理に合致すれば、それが証である。
正しい観行過程において、心には多くの変化が生じ、七覚分が一一現前し、内心に煖相が現れ、四加行の前三者が現れる。最後に無我・空を証得した時、世第一法となり初果が成就する。これらの現象が一切現れないまま、我見を断ち初果を得たと言うのは、自らを欺き他を欺く行為である。九十九パーセントの者がこのような観行をしておらず、七覚分が全て現れず、忍位が真に完成していないため、最後の世間第一の初果人となることは不可能である。
仏法の修証には厳格な基準がある。これらの基準は仏が経中で説いた三十七道品・七覚分・四加行・四念住などである。ただ衆生自らが理解せず、弘法者も理解しなければ、世間は乱相を呈し、街中に聖賢が溢れながらも烏煙瘴気となり、世風が低下する。
七、仏が大念住経で五蓋を説く際、内貪欲と外貪欲、内瞋恚と外瞋恚、内睡眠と外睡眠、内掉悔と外掉悔、内疑惑と外疑惑を挙げられた。内と外はそれぞれ何を指すのか。
心を内外に分けるなら、外心とは衆生が普遍的に発見し観察できる心意識を指し、内心とは衆生が容易に発見観察できない心意根を指す。二つの識心は一顕一隠、一明一暗、一浅一深、一易変一堅固である。修行はまず浅層の意識に落とし込み、次に深層の意根に至る。先ず意識を初歩的に転変させ、最後に意根を究竟的に転変させる。故に全ての煩悩無明は、最初で顕著なのは意識層面、最後で隠微深奥なのは意根層面である。
この経典から、仏が小乗法を説く際、意根の法を明言しなかったが、密かに意根に言及し、一切の煩悩無明が意根のものであることを示し、煩悩を断つのは意根の煩悩を断ち、解脱は意根の解脱であることを示した。一切法を意根に落とし、意根の問題を解決すれば一切法が解決され、最終的に涅槃解脱に至る。
八、仏が大念住経で受を観ずる時、内受と外受の二種を説かれた。外受とは観察しやすい意識心の受、特に六塵境界上の意識の受を指す。内受とは隠れて深く観察し難い意根の受を指す。大多数の者は意識と意根を区別できないが、内心深層の思想活動は心が細かければ感知観察できる。
仏が心を観ずる時、内心と外心の貪瞋痴煩悩を観察し、内心と外心の集中散乱・広大狭小・有上無上・有定無定・解脱不解脱を観察するよう説かれた。これは内心意根に貪瞋痴煩悩があり、定と不定、解脱と不解脱があることを示す。小乗経典から意根にこれらの心所法があることを証明する。世尊が明説されなかったのは、意根の法は大乗弟子ですら理解証得できないため、まして小乗弟子が意根の法を深く正しく理解できるはずがないからである。
疑惑煩悩には内疑惑と外疑惑があり、疑を断つには究竟的に断たねばならず、必ず意根の疑惑を断つ。故に三縛結は完全に意根の結を指し、意根の疑惑を断除して初めて三縛結を断つ。貪欲を断つのは意根の貪欲を断ち、心が色界天人と相応し色界天に生まれる。瞋恚を断つのは必ず意根の瞋恚を断ち三果人となる。愚痴を断つのは必ず意根の愚痴無明を断ち三界を出離する。
小乗仏経は最も理解しやすいが、果たして真に看懂る者がいるだろうか。まして大乗経典を真に完全に看懂る者などいるだろうか。阿羅漢果を証しても汝の意を完全に信ずることはできず、智慧が不足し意が究竟でないため、完全に信じれば容易に誤りを生ずる。
九、大念住経で世尊が五取蘊を説く時、色受想行識の内法と外法も説かれた。内色は色身、外色は六塵、内受想行識は意根、外受想行識は意識である。
世尊が七覚分を説く時、七覚分を内七覚分と外七覚分に分けられた。択法覚分・精進覚分・喜覚分・猗(軽安)覚分・定覚分・捨覚分は、全て意識の外覚分と意根の内覚分に分かれる。内七覚分が修成されていない時、小乗果を証得できず、我見を断つことはおろか、明心見性など論外である。三十七道品を成就せず、大小乗の果は一切語るに及ばず、身心の軽安が成就せず定も成就せず、内心の捨受が存在しなければ、我見を断除できず明心見性もできない。これが仏法修証の硬指標であり、誰もこれを超越できない。強いて某某が証果や明心したと言うなら、全て朔料果であり、鑑賞するのみで腹を満たさず、実有的価値がない。
十、七覚分の第一は念覚分である。内念覚分は意根の念、外念覚分は意識の念である。意根に念覚分がない時、念覚分は成就せず、択法覚分も現前しない。故に意根には必ず念心所があり、小乗経典にも密かに意根の念心所が説かれている。まして大乗経典においてはなおさらである。ただ衆生の無明が重く、経典を看懂ることができず、弁別できないだけである。
世尊の七覚分に関する記述から、意根には択法覚分・精進覚分(真精進)・喜覚分(意根は単に捨受ではない)・軽安覚分・定覚分(定と相応)・捨覚分があることが分かる。その後心行が八正道に合致して初めて小乗証果の条件を具足し、我見を断ち初果を証得する。さもなくば全て偽果・朔料果である。条件が具足せず因縁が整わないまま強引に導けば、偽果を得るのみである。
七覚分中の択法覚分は、この境地に修まれば弁別能力が生じる。しかし自己の現状を超越し過ぎると再び抉択能力を失うため、さらに修行を続ける必要がある。択法覚分は不断に増進させ、円満具足して初めて、直ちに一切法を正しく抉択し疑いなくなる。
(続く)
6
+1