原文:大王様。どのように身体内の風界が軽く動くなどの相であるか。すなわち、この内なる風は、時に上へ昇り、時に下へ降り、あるいは腹の間に留まり、あるいは脇腹や背中にあり、あるいは湿疹を発し、あるいは塊となって集まり、あるいは刀で切られるようであり、あるいは針で刺されるようであり、出入する息などが、身体の四肢に遍満する。
釈:大王様、身体内の風界が軽く漂い動くなどの相とは何か。それは身体の中の下から上へ昇る風、あるいは上から下へ降りる風、あるいは左から右へ、右から左へ流れる風、あるいは腹部・腰脇・背中に留まる風、あるいは湿疹を引き起こし塊となって膨らむ風、あるいは身体が刀で切られるように、針で刺されるように痛みを感じさせる風、さらに呼吸が出入りする身体の風であり、これらの種類の風が身体の四肢に遍満している。
風の特性は軽く漂うことであり、風が推し進められると歩いたり自転車に乗ったりするのが速くなる。風が吹くと軽いものは風に吹かれて上へ舞い上がる。風にはまた「動」という特性があり、風は物体を不安定にさせ動揺や回転を生じさせる。私たちの身体が機能するのはなぜか。身体内に風の性質があるからであり、風の性質がなければ私たちの四肢は動かず、話すこともできない。
言語はどのように生じるのか。内面に覚察や観察、感受があれば、私たちはそれを言葉で表現しようとする。すると身体の中に一股の風が生じ、風が臍に触れ、さらに上へ触れ、心臓や肺に触れ、さらに上へ気管・喉・口に触れ、舌・歯・唇に触れた後、言語が生じる。風界がなければ言語は生じず、風の性質は動くものであり、言語もまた動くものである。この風の性質がなければ音声は発せられない。心にどれほど多くの考えがあっても、風の作用がなければ思想や観念は表現できず、言語は生じない。これは身体内部に必ず風の性質があることを示しており、風が動いて内臓器官に触れることで言語が表現されるのである。
言語もまた虚妄である。言語の一音一音はどこに隠れているのか。隠れる場所はない。私たちが話し終えた後、言語は滅するが、どこへ滅するのか。滅する場所はない。よって万法はこのように虚妄であり、得るべきものはなく、理屈を述べることもできない。無から無へと至るのである。一切の事理を分析推論してみると、私たちが接触する一切の事物は、このように虚妄で実体がない。このように多く観行し思惟すれば、一切法空を証得し、我見を断じて初果を証得できる。その後は執着すべきものは何もなくなる。
執着が消えないのは、私たちの理が通じていないためであり、あるいは少しは理解していても透徹していないためである。理が透徹した後は、ここに座って考えてみると、私たちの色身から宇宙全体・山河大地・三千大千世界・十方の仏国土に至るまで、理に依って推論すれば、すべて無から無へと至り、一つとして真実のものはない。これは深く禅定に入り、この理を深く細かく観行し、この理を認可しなければならない。真の観行による認可の過程がなければ修行は力を持たず、煩悩を降伏させる力はなく、具体的な事柄に遭遇した時には依然として接触する一切の法を真実と見做して執着し煩悩を生じる。定力が足りず、福徳も不足し、智慧も足りず、観行も不十分であれば、無我の果位を証得することはできない。
身体の中の風は、あるいは身体の下から上へ昇り、あるいは上から下へ降り、あるいは左から右へ、右から左へ流れる。これが風の動く性質である。座禅をしている時に感じ取ることができる。気脈が動くと感じ取れるのである。気脈とは風であり、気脈がどこに至るかで身体の感受がそこに現れる。本来座っている時、身体は曲がっているが、気脈が身体の背中を運行すると、身体の背中はすぐに真っ直ぐになる。わざと真っ直ぐに座ろうとしなくても、身体は自然に真っ直ぐになる。これが風の動く性質であり、身体に対する支配作用である。
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