衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年05月15日    水曜日     第2開示 合計1531開示

真証と仮証の区別

「覚えるより書く方が確かだ」という言葉から、意識と意根の異なる機能が身心世界に与える影響力を考察する。世俗の事柄について、意識が推測・推理・分析した結果と、実際に目撃したり耳にしたり経験したりしたことによる内面の覚受や衝撃には、どのような違いがあるだろうか。五蘊十八界の法や如来蔵の法について、意識が文字から推論・推測・分析して得た結論は、身心世界にどのような影響を与えるか。また、意根が自ら証悟した場合、身心世界にはどのような変化が生じるだろうか。

意識が「誰かが私を罵っているかもしれない」と推測するのと、実際に誰かに罵られるのを耳にするのとでは、意根の反応にどのような違いが生じるか。身心世界の反響はどう異なるか。意識がある事柄を「こういうものだ」と導き出すのと、自らそれを経験して「こういうものだ」と知るのとでは、意根の覚受や反応にどのような差が生まれるか。身心世界はどう変わるだろうか。

意識が文字から「五蘊十八界は空であり私ではない」と推理するのと、自ら五蘊十八界が空であり自己ではないことを証明するのとでは、意根の反応や智慧にどのような違いが現れるか。身心世界にはどれほどの差が生じるだろうか。

意識が文字から推論・判断・分析して「如来蔵はこのように作用する」「おおよそこういう仕組みで動いている」と理解するのと、禅定の中で参禅を重ね、ついに如来蔵の所在と具体的な働きを真に目の当たりにするのとでは、二者の意根への影響にどのような違いがあるか。意根の智慧はどう異なり、身心世界への影響にはどれほどの差があるだろうか。

導き出したもの・推理したもの・推測したもの・分析したものは、実証と言えるだろうか。そこに実修の過程は存在するか。何をもって実修と呼ぶのか。そして実証とは何を指すのか。

殺害現場を想像するのと、実際に目撃するのとでは、内面への衝撃にどのような差があるか。優しそうな顔を想像するのと、実際にその顔を見るのとでは、心の感触や覚受にどんな違いが生まれるか。人への影響はどう変わるか。両親の死を推測するのと、自らその死に立ち会うのとでは、身心世界にどのような差が現れるか。自己への影響の大きさはどれほど異なるだろうか。

霊山会で仏が説法する様子を想像するのと、実際に霊山会に座って仏の説法を聞くのとでは、効果にどれほどの差があるか。身心への影響力の違いはどの程度か。想像・推理・判断・導出・分析によって得られたものに、三昧の証量はあるだろうか。それは智慧を開く三昧に属するか。霊山会の場面を想像することは、三昧の境界と言えるか。智者大師が定中で霊山法会に参加した三昧と、どのような差があるだろうか。

念仏三昧において、十方諸仏が眼前に立つと想像するのと、自ら証見して十方諸仏が眼前に立つ三昧とでは、どれほどの差があるか。白骨観において、想像による白骨観と、白骨観が真に現前する三昧とでは、どのような違いがあるだろうか。

仏教界全体が乱れに乱れ、これ以上ないほどの混沌状態にある。よって仏教界は整理され、縮小されるべきで、これ以上拡大・拡張すべきではない。そうしなければ仏教は必ず滅びる。一人ひとり、それぞれの団体が自らを実修・実証と称しているが、果たしてどこに実があるのか。誰が着実に修行しているのか。皆が意識心を用いて巧妙に立ち回り、言葉遊びをし、自我を弄んでいるだけで、真に無我なる者などいるだろうか。

どれほどの人々が「五蘊世間は夢幻の如し」と導き出し、自ら夢幻を証得したと主張していることか。本当にそうなのか。真に如幻観を証得すれば十住位、真に如梦観を証得すれば十回向位となり、まさに初地に入ろうとしている。娑婆世界に、これほど多くの初地間近の大根器の菩薩や、長く修行を積んだ再来の菩薩が存在するだろうか。もしそうだとして、彼らの禅定はどこにあるのか。煩悩はまだ残っているのか。初禅定を得ているのか。煩悩を断じているのか。こう問うても、なお自分は初禅定を得て煩悩を断じ、有余涅槃の状態にあると主張する者は現れる。誰もこれらの衆生をどうすることもできず、ただ自らができると信じ込んでいる。

どれほどの人々が文字から第八識を導き出したのか。どれほどの人々が第八識を推測したのか。どれほどの人々が第八識を分析したのか。どれほどの人々が第八識について伝え聞いたのか。どれほどの人々が第八識の概略的な作用を教えられたのか。それに何の意味があるのか。智慧は開かれたのか。真実の功徳による受用はあるのか。法眼浄の現実的な証量はあるのか。真に我見を断ったのか。どれほどの人々が悟りを開いて長年経つというのに、未だ我見を断っておらず、我見を断つまでにはなお長い道のりがあり、この生涯では我見を断つ資格さえない条件なのか。六住位における我見断を証得していない者が、どうして七住位の明心を証得できようか。

参禅の過程は、意識と意根が徐々に五蘊の苦・空・無常・無我の性質を認めさせ、五蘊身の虚妄不実の性質を徐々に見極めさせ、身見と我見を徐々に降伏させる。この過程なしに、文字から「第八識は五蘊身の中でおそらくこのように作用している」と推論したり、導出したり、分析したり、伝え聞いたり、教えられたりしても、身見や我見を降伏させることは不可能であり、ましてや断除などなおさらである。では、この第八識の結論を知ることが、自己の身心世界に何の意味があるのか。どのような功徳による受用があるのか。受用となる功徳がなければ、第八識を知っていても何の役に立つのか。大通りの横断幕や看板に「全ての学仏者には真心第八識があり、このように作用する」と掲げて天下に知らせたとして、それを聞いた者が身見・我見を断除し、三縛結を断じ、三悪道の業を滅することができるだろうか。もしできるなら、このような良いことがあるのに、なぜ仏陀はそれを用いなかったのか。

——生如法師の開示
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