「良き記憶も爛れた筆先に如かず」との言葉より、意識と意根の異なる機能作用が身心世界に及ぼす影響力を思惟する。世俗法における某人某事に対し、意識が推測し推理し分析して得たものと、実際に目撃し聴聞し体験した場合の内心の覚受と触動は、如何なる差異を有するか。五蘊十八界の法、如来蔵の法に対し、意識が文字上から推論し推測し分析して得た結論は、身心世界に如何なる影響を及ぼすか。もし意根も自ら証得するならば、身心世界に如何なる影響を及ぼすか。
意識が「某人が私を罵っているかもしれない」と推測する場合と、実際に某人が私を罵る声を聴く場合、意根は如何なる異なる反応を示すか。身心世界に如何なる相違ある響きを生じるか。意識がある事柄が如是であると推論する場合と、自ら事柄を体験して如是であると知る場合、意根の覚受と反応には如何なる差別が生じるか。身心世界に如何なる相違が現れるか。
文字から五蘊十八界が空であり我ならざると推論する意識と、自ら五蘊十八界が空であり我ならざると証得した場合、意根に如何なる異なる反応と智慧が生起するか。身心世界に如何ほどの差別が現れるか。
文字上から如来蔵が如是の作用を起こし、およそ如是に運行すると推論判断分析する場合と、禅定中に参禅を重ね苦心して究明し、遂に如来蔵の所在と具体的な運作を真実に見届けた場合、この二者が意根に及ぼす影響に如何なる差異があるか。意根の智慧に如何なる差別が生じるか。身心世界への影響に如何ほどの相違が現れるか。
推論され推理され推測され分析されたものは、実証と見做し得るか。その中に実修の過程は存在するか。何をもって実修と謂い、何をもって実証と謂うか。
殺害現場を想像する場合と実際に目撃する場合、内心の触動に如何なる差別があるか。和やかな容貌を想像する場合と実際に目にする場合、内心の感覚覚受に如何なる相違があるか。人への影響に如何なる差異が生じるか。両親の死を推測する場合と自ら目撃する場合、身心世界に如何なる差別が現れるか。自己への影響に如何ほどの相違があるか。
霊山会で仏が説法する様を想像する場合と、実際に霊山会に坐して仏の説法を聴く場合、その効果に如何ほどの差があるか。身心への影響力に如何なる相違があるか。推論判断分析によって得られたものに、三昧の証量は存在するか。智慧を開く三昧に属するか。霊山会の情景を想像することは、三昧の境界と言えるか。智者大師が定中で霊山法会に参列した三昧と、如何なる差別があるか。
念仏三昧において十方諸仏が面前に立つと想像する場合と、自ら十方諸仏が面前に立つを証見する三昧とは、如何ほどの差があるか。白骨観において想像された白骨観と、白骨が真に現前する三昧とは、如何なる相違があるか。
仏教界全体が混迷を極め、最早これ以上乱れる余地なし。故に仏教界は整頓を要し、拡大拡張を止め収縮すべきである。然らずんば仏教は必ず滅びん。各人各団体が実修実証を標榜するも、何処に真実があるか。誰が着実に修行を積んでいるか。皆意識心をもて遊び、言葉の戯れを弄し、自我を弄ぶのみ。真に無我なる者は何処に在るか。
幾多の人々が五蘊世間の夢幻を推論し、自ら夢幻を証得せりと称する。真に然るか。真に如幻観を証得するは十住位、真に如夢観を証得するは十回向位にして、直ちに初地に入る。娑婆世界に、かくも多くの地に入らんとする大根器の菩薩、かくも久修の再来菩薩が存在するか。若し然りならば、禅定は何処に在るか。煩悩は尚あるか。初禅定を得ているか。煩悩を断じたか。斯く問えば、未だ初禅定を得煩悩を断じ有余涅槃の状態に在りと称する者必ず現れん。誰もこれらの衆生を如何ともし難く、ただ自ら能うと信ずるのみ。
幾人が文字より第八識を推論したか。幾人が第八識を推測したか。幾人が第八識を分析したか。幾人が第八識を伝聞したか。幾人が第八識の大略なる作用を教示されたか。これに何の益があるか。智慧は開発されたか。真実の功徳受用があるか。法眼浄の現実証量があるか。真に我見を断じたか。開悟多年を経ながら未だ我見を断ぜず、我見断除まで尚遠く、此の生に我見を断ずる資格条件を具えざる者は幾何か。六住位の我見断を証得せずして、七住位の明心を証得し得るか。
参禅の過程は、意識意根に五蘊の苦空無常無我性を徐々に認めしめ、五蘊身の虚妄不実性を次第に悟らしめ、身見我見を漸く降伏せしむ。若し此の過程を経ずして、文字中から第八識が五蘊身中に如是に運作するを推論し、或は推論し、或は分析し、或は伝聞し、或は教示されたとしても、身見我見を降伏すること叶わず、況んや断除をや。然らば此の第八識の結論を知ることは、自己の身心世界に何の意義があるか。何の功徳受用があるか。功徳受用無くして、第八識を知ることに何の用あらん。街頭の広告板に「全ての学仏者に真心第八識が如是に作用す」と掲げれば、これを聞く者は身見我見を断じ、三縛結を滅し、三悪道業を除き得るか。若し然りならば、此の善き事を仏陀は何故用いられなかったか。
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