問:意根は本来、一法に専念することなく、常に一切の諸法に縁を攀じるものなのでしょうか。
答:意根には確かに一切法に縁を攀じる機能と体性を具えていますが、必ずしも同時に全ての法に縁を攀じ得るわけではなく、また同時に全ての法に縁を攀じようとする意志があるわけでもなく、更に同時に全ての法に縁を攀じる精力を有しているわけでもありません。意根は極めて散乱して多くの法に同時に縁を攀じますが、意識がこれに従って同様に縁を攀じることを望まない時、意根はこのように無秩序に縁を攀じても無益であることを自覚し、やがて意識が関心を持たない法には縁を攀じることを止め、次第に安定して精力を集中させ、自らの散乱心を調伏し、禅定が現前するに至ります。これが修定の結果であり、意識の智慧による薫染の成果であり、意識による牽制の所産であります。
故に、意根は禅定を現じ得るものであり、自らの広汎な縁攀性を調伏し得るものであり、その心は次第に集中を深め、遂には特定の法或いはある方面の法に専注するに至ります。その注意力に偏重と重点が生じ、所縁の法に選択が為される時、意根には定が生じます。意根は自らが深く興味を抱く事柄に対しては、意識の牽制を待たず自然に精力を集中して専注し、六識は意根の牽制を受けて意根の興味ある事柄に集中します。従って禅定を善く修めんとするならば、意識は意根が深く興味を抱く法を選択して意根に縁せしめ、かくして意根が専注するに至れば、禅定は現前し、三昧は速やかに成就するのであります。
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