問:意根は意識に妄想念の種子を提供できるのでしょうか。また、意識を離れた場合、意根の機能作用は減少するのでしょうか。
答:意識の妄想念は確かに意根から引き出されるものであり、意根が妄想念の内容と方向性を提供し、意根の調節を受けるもので、意根の願いと心を体現しています。ただし、この種子および全ての種子は依然として如来蔵によって提供されるものです。如来蔵のみが妄想念に用いられる識種子と法種子を蔵することができ、意根は如何なる種子も蔵することはできません。それは実体ではないため、生滅変化する性質のものであり、自在性と自主性を有さないためです。もし意根が種子を提供できるならば、二つの能蔵心体が存在することになり、秩序が乱れてしまいます。実際には、意根が妄想念の計画と決定を有すると、如来蔵はこれを了知して妄想念に必要な種子を配合して出力し、意識の識種子を含むため、意識は初めて妄想念を生じることができるのです。意根は先んじて妄想念の縁を攀じるだけで良く、これが妄想念の出現を促すもので、それは妄想念の動力と源泉です。最終的な源泉は依然として如来蔵にあり、一切の法は究極的には如来蔵より流出するものです。
意識を離れた場合、意根の機能作用は減少するのでしょうか。我々は知るべきです。意根は極めて多くの機能作用を有しており、六塵における機能作用において、もし五陰身と六識を離れたならば、意根が千の意志と千の妙計を有するも、これを展開し発揮することは困難です。執行者も実施者も存在せず、従属する手足もないためです。この点から見れば、意根は無記識であり、その善悪の心行も実現できず、善悪の行も造作できず、善悪の種子を貯蔵できず、善悪の果報も実現できません。したがって、無始劫以前、器世間と五陰身が存在しなかった時代には、意根が無数の無明煩悩を有するも、無明煩悩の業行は存在せず、如来蔵と共に杳杳冥冥の中にあったのです。よって意根が意識を離れても、その機能作用は依然として同量存在しますが、ただ展開できず、作動できないだけなのです。
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