衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月07日    金曜日     第1 回の開示 合計1586回の開示

楞伽経における意根による身見と我見の断絶の証明

大慧よ、身見には二種あり。倶生及び妄想と謂う。……これ須陀洹の妄想身見なり。彼は人無我をもって、摂受無性をなし、久遠の無知計著を断除す。

大慧よ、倶生なる者は、須陀洹の身見なり。自他身等しく、四陰無色相なるが故に、色生じ、造り及び造られるが故に、展転相因相なるが故に、大種及び色集まらざるが故に、須陀洹は有無の品現れざるを観じ、身見は則ち断ず。かくの如く身見断ずれば、貪は則ち生ぜず。これを身見相と名づく。

……須陀洹は三結を断じ、貪痴生ぜず。若し須陀洹が『此の諸結我成就せず』と念ずるならば、二過あるべし。身見に堕ち、及び諸結断えざるなり。大慧仏に白して言く「世尊、世尊は多くの貪欲を説きたまう。彼いずれの貪を断ずるや」仏大慧に告げたまわく「女人を愛楽し、纏綿貪著する種々の方便、身口の悪業、現在の楽を受けて未来の苦を種く。彼は則ち生ぜず。所以は如何ん、三昧正受の楽を得るが故なり。是の故に彼は断ず。涅槃に趣く貪の断ずるに非ざるなり」

略釈:楞伽経に説く身見は二種あり、一つは妄想、即ち意識の身見、これを断除すべく、もう一つは倶生、生来よりある身見、即ち意根の身見、これもまた断除すべし。二種の身見を断除してこそ、真に身見を断ずる者なり。これは楞伽経中の仏説を援引するもの、我が個人の見解に非ず。皆様の注意を喚起し、もはや意識による身見断・我見断で足ると考えず、仏説を基準とすべきことを望む。

楞伽経中仏は説きたまう、須陀洹が身見を断除した後、色身への貪は生ぜず、故に色身のために悪業を造作せず。これ仏の説きたまう所、俱舎論に説く初果須陀洹は悪を造らざると説くある人の言に非ず。

一切の法は仏説を基準とす。いかなる人も仏説と一致せざれば、信受すべからず。名高い大師なりと雖も、いかなる果位の人なりと雖も。

一切の学仏者は仏法を学ぶを主とし、仏説を信受するを主とす。個人崇拝を為さず、名師への情執を抱かず、理智ある学仏修行者となることを志すべし。修学は仏経を学ぶを主とし、仏説を宗旨とし、必ず真の仏弟子となり、名実相伴う仏弟子たるべし。某かの名師の弟子たるに非ず。

身見を断ずるには意識の身見と意根の身見を分かつ。即ち識心の我見を断ずるには、更に意識の我見と意根の我見を分かつべし。意識の妄想我見と意根の倶生我見の二種に分かたる。

ただ意識の我見を断ずる者のみは、我見を断ずる者と名づけず。必ず再び定を修し観行し五蘊無我を参究し、意根の我見を断ずるを要とす。然らずんば因果容赦せず。

楞伽経中仏はまた説きたまう、須陀洹は三結を断じ貪痴生ぜず。これはある種の貪が生ぜざるを説く、全ての貪が生ぜざるは三果人なり。初果は身見の三縛結を断除し、異性への纏綿貪は生ぜず、三昧楽受あるが故なり。所謂る三昧楽受とは、初果証果時の禅定覚受と覚明の現象なり。故に初果を証するには必ず禅定を有し、未到地定を得て後、初果を証する時に初めて三昧境界あり、禅定と我見を断ずる智慧を含む。

故に初果を証するに禅定を要せずと説く者は、大いなる誤謬なり。仏意に背き、衆生を誤って導く。自ら我見を断じ初果を証得せりと認むる者、証果時に三昧楽受の現象現れざれば、必ず我見を断ぜず、初果を証得せざるなり。証果後も煩悩依然として前の如き者は、必ず我見を断ぜず、三縛結を断除せず、必ず証果せざるなり。即ち自らに責任を負い、未来世の果報に責任を負い、再び定を修し観行し五蘊無我法を参究すべし。

自ら心を長ぜず、一味に縁ある人の教導を信受し、理智を欠き、情執深重なれば、必ず損をなす。後悔薬を服すべきなり。然らざれば悪道に堕つるを免れず。果報畏るべし。人に証果及び明心開悟を宣説し、かつ意識による証果及び明心なる者は、必ず懺悔し、大妄語の悪業を滅除し、後世の悪劣なる果報を免るべし。

或る者は必ず我と張り合い、我見を断ずるに意根の我見を断ずるを要せずと説く。今ここに仏経の証明あり、究竟に誰が誤りか、誰が衆生を誤導し歧路に引き入れたるか。

また或る者は我と張り合い、証果と明心に禅定を要せずと説く。楞伽経ここにさらに明らかに説きたまう、証果明心は禅定無くしては成り立たず。今明らかなり。豈に我と張り合うにあらずや、仏と張り合い、仏経と張り合い、真理と張り合うなり。その結果如何、自ら考えるべし。

再び或る者、我見を断じ初果を証するはただ意識の智慧の認知に過ぎず、身口意行を改むるを要せずと説かば、最早何の道理も口実も無し。仏経明らかに説きたまう、初果三縛結を断除した後は必ず一部の貪と痴を断除し、煩悩あるいは降伏す。それらの初果人が再び悪業を造作すれば、全く口実無し。煩悩深重にして身口意行の悪業を造作する者は、必ず我見を断ぜず初果を証せざるなり。楞伽経を以て証とす。

初果人は法眼浄きを始め、必ず法眼浄きの功徳受用あり、必ず一部解脱の功徳受用あり。若しこれ無ければ、必ず我見を断ぜず、証果せざるなり。仏説を基準とす。或る者は自らに大いなる聖人の冠を被るを好む。豈に斯かる冠が安易に自らに被るべきことを知らざるや。

娑婆世界、特に仏去ること二千有余年の今の末法時期、決して満街聖人の現象現れず。釈迦仏在世にさえ、満街聖人の現象現れざりき。五濁悪世、畢竟五濁悪世と称するは、他世界と極めて大なる差別あり、弥勒仏出世の時代とすら大いに異なる。満天下聖人なるは全く痴心妄想、一縷の願望、夢中にも見難し。

自ら我見を断じ明心せりと認めながら、なお非法の男女関係ある者は、必ず我見三縛結を断ぜず、必ず明心せざるなり。楞伽経中仏は説きたまう「三昧楽受あるが故に、男女の楽を受けず」。豈に三縛結を断除しつつ、なお男女間痴痴綿綿、戚戚愛愛の糾えるが如き関係を保ち得んや。それ自ら三昧楽受無きを示す。三昧楽受あれば男女の楽を排斥し、もはや男女の楽を好まず。三昧楽受は男女の楽受に遥かに勝れたれば、誰も最低の楽受を選び勝れる楽受を捨つる者無し。例え正常ならざる者も斯くは為さざるなり。

大妄語者実に少なからず、皆我の心が祟りし結果なり。身見我見断ぜざるに、証果の我と明心の我を増加す。一つの我ですでに天を覆わんとするに、更に別の我を加うれば、尚お成り行くべきか。必ず大いに悪業を造作し、以て二つの我の所謂る威徳力を体現せん。

——生如法師の開示
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