衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年06月08日    土曜日     第1 回の開示 合計1587回の開示

貪欲を摂受し法を摂受しないとはどういう意味ですか?

楞伽経原文:仏は説かれた。貪りというものは、取ることも捨てることも、触れることも味わうことも、外塵に執着することをいう。二辺の見解に堕し、再び苦しみの陰を生じ、生老病死憂悲苦悩を生ず。かかる諸々の患いは全て愛より起こる。これは世論に習い親しむこと、及び世論を語る者による。我及び諸仏はこれを貪りと名付ける。これを貪欲を受容し法を受容せざると名付く。大慧よ、いかにして法を受容するか。自心の現量を善く覚知し、人無我及び法無我の相を見、妄想生ぜず。上上の地を善く知り、心・意・意識を離れ、一切諸仏の智慧灌頂を具足し、十の無尽句を受容し、一切の法に於いて自在に開発すること無きを法と名付く。所謂一切の見、一切の虚偽、一切の妄想、一切の性、一切の二辺に堕せざるなり。

略釈:一切に対し執取の心あるいは厭離の心を抱き、触れあるいは没入するとき、心がこれらの塵境に繋がることは、全て貪愛の現れであり、苦受陰に堕し生老病死憂悲苦悩を免れ得ない。

一切の生死の過患は、全て貪愛より引き起こされる。世俗の論法に熏習し世俗法と親しく交わることにより、世間法への貪愛が生ず。仏はこのような衆生の心が貪愛を取り込んで法を取り込まぬと説かれる。

法を受容するとは何か。自らが知り触れる一切の法が自心より現起し、三つの能変識の和合により顕現され、真実の第八識が縁により出生するもので実存せざることを善く覚知すること。第八識は第一に法を出生する識心、第七識は第二に法を促し顕現する識心、六識は第三に法を顕現する識心なり。三者和合すれば一切の法は運作され現れる。

一切の法に触れる際、五陰十八界が無我であり、一切の法相が無我性で実存性なく、出生され生滅無常に変化する不確かなものと明らかに覚知すべし。かくして一切の法に対し再び何らの想念を生ぜず、内心これらの法に依存せず、執着や分別の念を起こさず、善悪是非利害等の観念を生ぜざる。

一切の法が無我で真実性なく自心の妄想より出生することを証得すれば、再び用心することなく貪着を離れ生死の苦より遠ざかる。用心せず特殊な処理や対応をせず、事来れば用い、用いても心無く、事去れば滅し心に留めず、束縛なく掛碍無く自由自在なり。一切の法を自生自滅に任せ来たり去るも我と関わり無く、即ち大解脱なり。

——生如法師の開示
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