楞伽経原文:仏は説きたまわく、いわゆる貪りとは、取るにせよ、捨てるにせよ、触れるにせよ、味わうにせよ、外塵に係着し、二辺の見に堕ち、さらに苦陰を生じ、生老病死憂悲苦悩を生ず。かくのごとき諸々の患いは、みな愛より起こる。これは世論に習近し、及び世論者によるなり。我及び諸仏は、これを貪りと名づけて説く。これを摂受貪欲にして摂受法にあらずと名づく。大慧よ、いかにか摂受法なる。善く自心現量を覚知し、人無我及び法無我相を見て、妄想生ぜず。善く上上の地を知り、心・意・意識を離れ、一切の諸仏の智慧灌頂を具足し、十の無尽句を摂受して、一切の法に於いて開発無く自在なり。これを法と名づく。いわゆる一切の見・一切の虚偽・一切の妄想・一切の性・一切の二辺に堕せず。
略釈:一切に対して執取の心あるいは厭離の心を持ち、あるいは触れ、あるいはその中に没入し、心がこれらの塵境に係属するのは、みな貪愛の表現であり、苦受陰の中に堕ち、生老病死憂悲苦悩は避けられない。
一切の生死の過患は、すべて貪愛によって引き起こされる。世俗の論法に熏習し、世俗法と交わり密接であれば、世間法に対する貪愛が生じる。仏はこのように衆生の心が貪愛を摂取し、法を摂取しないと説きたまう。
いかにか摂受法なるか。善く自らが知り触れる一切の法が自心より現起したものであることを覚知し、三つの能変識の和合によって顕現され、真実の心である第八識が縁によって出生したものであり、真実に存在しないものであることを知る。第八識は第一に法を出生する識心であり、第七識は第二に法の出生と顕現を促す識心であり、六識は第三に法を顕現する識心である。三者が和合すれば、一切の法は運作される。
一切の法に接触する際には、五陰十八界が無我であることを明らかに覚知し、一切の法相が無我性であり真実の存在性を持たず、すべて出生され生滅無常で変異し信頼できないものであることを覚知する。このように一切の法に対してはもはや何の考えも持たず、内心はこれらの法に再び依存せず、これらの法に対して心を動かすこともなく、執着や分別、善悪是非対錯有利有弊などの思想観念を再び生じることはない。
一切の法がことごとく無我であり真実性がないこと、自心の妄想によって出生されたことを証得し、もはや用心することをしなければ、貪着を離れ、生死の苦を遠ざかる。用心しなければ、特別に処理したり対処したりせず、事来れば則ち用い、用いて無心、事去れば則ち滅し、心に未練を残さず、心に束縛なく、掛かり碍なく、自由自在である。一切の法はそのまま自生自滅に任せ、来来去去も我と関係なく、すなわちこれが大解脱である。
13
+1