衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年06月12日    水曜日     第1開示 合計1600開示

離念霊知心とは何ですか

離念とは、念を離れること、すなわち何の念もない状態を指します。霊知とは、霊敏なる了知のことです。念がなくともなお霊敏に了知するというこの働きは、七つの識のうち、いずれの識がこれを成し得るでしょうか。

意識に念がないとき、なお色・声・香・味・触・法を知覚するならば、このとき眼識は知覚をもち、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫を認識できるでしょうか。認識できます。耳識は知覚をもち、音声の粗重相・震動相を認識できるでしょうか。認識できます。鼻識は知覚をもち、香塵の粗重相・刺鼻相を認識できるでしょうか。認識できます。舌識は知覚をもち、味塵の粗重相を認識できるでしょうか。認識できます。身識は知覚をもち、触塵の粗重相を認識できるでしょうか。認識できます。意識は知覚をもち、五塵上の法塵を認識できるでしょうか。認識できます。第七識は知覚をもつでしょうか。一切の六塵境界を認識するでしょうか。認識します。第八識は知覚をもち、意根の心行、業種、宇宙器世間を認識するでしょうか。認識します。ここに見られるように、意識が無念であっても、いかなる識の知性にも影響を与えません。意根の知が六識を統率し、第八識の知が一切の法を統率するのです。

同様に、意識が善も思わず悪も思わないとき、いずれの識が作動しているでしょうか。八つの識すべてが作動しています。では、このときの妄心である七識と真心である第八識をいかに区別すべきでしょうか。いかにして第八識を証悟し、六・七識の心を第八識と誤って認めることを避けるべきでしょうか。

ある人々は、五蘊が作動するある法において、それを第八識の作動であると説きます。それならば、今後は六識を滅して第八識に自ら作動させ、七識を滅して第八識に自ら作動させ、七つの識を離れた後に第八識がいかにしてなお作動し得るかを見るべきです。明らかに、これは不可能です。ならば五蘊を観行し、五蘊を我とする知見を否定断除し、六・七識の作用を真実の我と認めなければ、不生不滅の真心である第八識を認めることになるでしょう。

現代人の悟りは、基本的に八識の和合作動の結果をすべて第八識一識に帰し、七つの識の功能作用を泯滅させています。もし七つの識の功能作用を泯滅させ得るならば、それはもちろん良いことです。すなわち時処諸縁においてすべてが第八識の功能作用となり、七つの識を必要とせず、一切の法が第八識単独の功能作用となり、すべてが第八識となるならば、一真法界を証得し、成仏に近づくことでしょう。しかしその中に六・七識の功能作用がなければ、このときいったい誰が一切の法が第八識であることを知るのでしょうか。七識を離れて、第八識が単独で作用を起こし得るならば、無余涅槃においても第八識はなお一切の法を生じ得ることになります。これはやはり涅槃の境界と言えるのでしょうか。

——生如法師の開示
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父子合集経選講(八九)

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